第七章•檻のなかの聞き手㊁
《二人は今ーー鎖のように、枯れた蔦が絡まった、大きなトンネルを塞いだ扉を、見つめていた。 手に、ランプを提げたビクが、深く息を吸い込み、一歩前へーーその足を踏み出す。 長く、そのときを待ち構えていたように、取っ手のない朱色の扉が、ひとりでにゆっくりと……中央から左右へ開き……枯れくすんだ蔦たちを散らして、音もなく……開かれていった……》
「三つちがいの弟は、俺みたいなろくでなしと違って、よくできたやつだった。 親も、自慢な息子の存在があったからこそ、手に負えない爆弾を抱えても、なんとか、正気を保ってこれたんだろう。 弟のやつは、医者を目指してーーほんとに、吐き気がするほど、よくできたやつの典型だよな。 一方で俺はーー毎日毎日、ヘドロにつかったような連中たちと、暴れ狂う日々を送ってた。 ギリギリ、一線を越えたことはなかったが、それでも、人には言えねぇようなこともたくさんしたし、警察の厄介になるのも、日常茶飯事ってわけだ」
微苦笑を浮かべた、ビクの顔からーーさっと表情が消える……。
短い間がーーあくのだった。
「ふつうは、こんな兄貴がいたら、真っ先に存在を切り捨てるだろ。ーー目障りで、厄介で、へたすれば、ただ血が繋がってるっていう、クソみてぇな理由だけで、自分の人生をめちゃくちゃにされかねない」
《とまることなく、先の見えぬ、闇のなかを進んでいくーービクの少し後ろを、ジェラは黙って、ついていくのだった……。 漆黒のトンネルの足下には、不思議な感覚に、黒々とした鏡のような、ごく浅い水面があった。 二人が進むたび、静かな波紋がうまれ、敵意のない深い闇のなかへ、吸い込まれるように……広がっていく……》
「だけどあいつは、そうしなかった。 切り捨てるどころか、どんどん道を踏み外していく、救い難い兄貴に、近づいてきた。 まっとうな道にもどれって、何度も何度も……バカみてぇに、殴られても……諦めずに、真正面からぶつかってきた……。 皮肉なもんだよな、腹を痛めて産んだ、母親でさえも、とうに見捨てたっていうのに……」
《ランプの灯りに照らされた、ビクの顔にーーそのとき、どんな表情が浮かんでいたのか……後ろを歩くジェラには、わからなかった……。 ビクは、ただじっとーー前の暗闇だけを見据え、歩き続けたーー》
「俺ははじめ、まったく相手にもしなかった。……腹が立った。 えらそうに、自分の人生に余裕がある、いわゆる勝ち組の、ふるまいかってな。 だから、弟が俺たちのたまり場に、一人でやってきたときも、仲間たちが、遊び半分にいくら殴り蹴ろうが、俺は一切とめなかった。 あいつは、そのせいで、勉強する利き手と片足を折ったが、随分取り乱したであろう親にも、たぶん最後まで、ほんとのことは言わなかったと思う。 俺は、とっくに家を出てたから、そこらへんのことは、正直わからねぇ。……でも、そう思ってる」
《真っ暗なトンネルのなかにーー長靴の立てる、水の音がーー幽玄にこだましていた……》
「あいつは、ケガをしたそのあとも、懲りずにたまり場にやってきた。 そのたびに、仲間たちにボコボコにされて、俺はただ、それを眺めてる。 だけど、だんだん……俺のなかに、変化が起こった……。 このままだと……いつか本当に、俺の目の前で、弟は仲間たちに殺されるーーそのことが、頭をよぎるようになった……」
《大きく吸い込まれたビクの息は、微かに、震えていた……》
「……腐ったゴミは、捨てとけばよかったんだ。……あいつは、自分の人生を……明るい未来だけを、ただ進んでいけばよかった……。 それなのに……なんでそこまでするのか……俺には、わからなかった……」
《ビクの足が、ゆっくりと止まる……。 ジェラの足も、止まるのだった……。 包む闇は、まるで自転車に乗る練習をする我が子を、しっかりと掴み支えるように、離れず存在していたーー》
「ケンカでは負けたことのない俺が、筋肉もろくにない、ひょろひょろの弟に、根性で負けた……。 もう一度、こんな腐った人生でもーーハエのたかる、腐り切った人間でもーーやり直してみようと……もしかしたら、やり直せるんじゃないかって……初めて、そう思ったんだ……。 あいつが俺に……そう思わせてくれた……。 自分でもまさか……そんな日が、くるなんてな……。 ほんとに、人生ってのは、よくわからねぇ。 きっと……俺のなかにあった、〈嵐の種〉を、いつの間にかあいつがーー弟がーー割り砕いてくれたんだな……」
《漆黒の闇が満たしたトンネルにーー突然、強い風が吹き抜けるーー。 金色とーー鳶色ーー二色の長い髪が、風に高く舞い上がった……。 二人はしばらくの間、その場に佇んでいた。 やがて、ビクが、歩き出すーー》
「俺はまず、つるんでた仲間たちと、どうにか縁を切った。 やつらにしても、俺がしたことは、許せねぇ裏切りだから、冗談じゃなく、一度や二度は、マジでこのまま死ぬだろうと思った。……でもまぁ、それでもどうにかこうにか、死ぬことなく、そいつらと片をつけたわけだ。 そのあと俺は、仕事を探した。 いくら若くても、そういう道を進んできたやつに、社会は容赦ねぇ。 それぐらいのことは、わかってたつもりだったが、いざぶち当たってみると、これがなかなか、キツイもんだった。 何度も腐りかけたが、ここでもまた、あいつの助けと、俺のなかにまだ残ってた、奇跡的な運もあって、最終的に、道路工事の仕事にありつけたんだ。 こんな俺にも、熱心になってくれる、あいつのような、先輩たちにも出会ってな……。 仕事は正直、かなりキツかった。 毎日朝早くから夜遅くまで、がむしゃらに働いて……はじめて真剣に、生きていた気がする……。 今思えば……必死にこれまでの分を、取りもどそうとしてたのかもな……。 人をさんざん殴ってきた手で、血じゃなく汗を拭いて、泥臭く働いた。 弟のやつも、バカみてぇに喜んでくれてな。 『自分も、今が踏ん張りどころだから、お互い頑張ろう』って……生意気なこと、言ってやがった……」
《響く声が、かすむように消えていき……遠くの先へ、ぼんやりと、小さな光が見えてきた。 それは、二人が進んできた、長いトンネルの出口へとーー近づきつつあることを、告げていた。 だがーージェラは、ごくっと……唾を飲み込む……。 見えている光のもとへ行くには、これまで進んできたなかでも、最も深くーー濃い闇のなかをーー通らねばならなかった……》
座った身に、思わず力を込めた、ジェラの横でーー檻のなかにいる〈ムー〉が、静かに立ち上がる。
向かい合う二人は、まったく気づかなかった。
大きく開いた足の上に、両肘をのせ、その先できつく握り合わされたビクの手はーー浮き出た筋と共に、青白い血管が、はっきりと見えていた。
《ビクは、再び立ち止まりーー時間をかけて、呼吸を整える……。 最後に大きく息を吸い、手に提げたランプの持ち手を強く握ると、目の前に広がる深い闇へーー一歩を、踏み出していった……》
「弟は、ある日突然死んだ。ーーバイクの、自損事故だった」
《心を落ち着けて……前へ前へ……懸命に進んでいこうとする思いが……すぐ後ろに続く、ジェラの身にも、それは苦しいほどに、伝わるのだった……》
「あまりにも突然で、最初は、なにがなんだか、わからなかった。 でも、しばらくして……じわじわと、その現実をのみ込みはじめたとき……俺は、泣き叫ぶより先に、まず……ほっとしたんだ。 弟がーーあいつがーー早すぎる人生の最後に、誰かを……殺してしまうような……誰かに……恨まれるような……そんなことがなくて、よかったって……。 膝から崩れて……心底ほっとしたのを……今でもはっきり覚えてる……。 そのあとに襲ってきた、気が狂うほどの感情に……のまれる前のことだった……」
《押し包む闇にーー言葉にならない……震えたため息が……響き渡った……》
「葬式の日は、雨だった。 悲しみに浸る日には、もってこいの、冷たい雨でな。 弟の葬式には、土砂降りの雨のなか、長い行列ができるほど、たくさんの人たちがきた。 雨のなか……みんな泣いてた……あいつのために……あいつは……最後まで……こんな兄貴とは違って……みんなに愛されてた……」
《ビクが、大きく息を吸う……。 その後ろすがたに、周りを満たす闇たちが集まり、黒々とした形に……息づいていた……》
「みっともねぇほどボロボロに、ボロ雑巾みたくなった親と……なにも、声をかけられず、少し離れた場所で、バカみてぇに突っ立った俺と……どういうわけか、白い棺に入っちまった弟と……何年かぶりに、家族で過ごす、最後の夜のことだった……。 俺はとうとう……口を開いた……それまでろくに、会話らしいことをした記憶もなく、それこそ、死んだも同然だった、残っちまったもう一人のできそこない息子が……これまで生きてきたなかで、一番の勇気を振り絞って……親に、声をかけた……」
《ビクの踏み出した足がーー固まる……。 握りしめた拳に……襲う痛みを堪えるように……荒い呼吸を繰り返し……重い足が、水しぶきをあげた……》
「……久しぶりに見た母親の顔は、随分老け込んだなと……そう思ったのを、覚えてる……。 その母親がーー俺に……言ったんだ……。 ……『なんで……なんで、あんたじゃなかったのっ!……』……ってな……」
ジェラは……息が止まった……。
心臓がーー激しく打ち……冷たくなった全身に、鋭い痛みが駆け抜ける……。
ビクは、長く俯いていた顔を、上げるのだった。
疲れきりーー光のない瞳が、目の前に座る、ジェラを見つめる。
「そのあとのことは、正直、あまり覚えてない。……すぐにその場から、逃げるように飛び出したこと……橋の上に登ったような記憶は、なんとなくあるけどな……。 でも、まぁ……俺もこうして、今ここにいるんだ」
《二人の目の前にはーー薄闇のなかに、水面を通して、まるく白く浮かび上がった、出口のすがたが、あるのだった。 『……ありがとな』ーージェラの顔が、横に並んだ、ビクの顔を見る。 映るその顔は、どこか澄んだ表情でーーじっと、前を見据えていた》
ビクが、木の腰かけから立ち上がる。
ジェラも、立ち上がるのだった。
黒々とした瞳がーー真っすぐに見つめる。
「どんなかたちであれ、今度はお互いに、最後まで生き抜けたらいいな」
褐色の瞳から、涙が流れ落ちる。ジェラは静かに泣きながら、相手を真っすぐに見つめ返しーー頷いた。
ビクの手が、そっと伸ばされ、相棒の頬に伝った、涙の跡を優しく拭う。
「ジェラ、今のことが終わったら、俺と……」
言いかけた、声が消えるーー大きな瞳に見つめる、ジェラの頬から、その手が離された。
真剣な表情からーーいつもの、意地悪い笑みが浮かぶ。
「ーーよし、じゃあ、ジェラは明日〈城〉へ行け。そんでミゲのやつに、〈ムー〉の状況を伝えてこい。もしかしたら、なにかヒントになる情報をもってるかもしれねぇからな」
予想外の言葉に、ジェラが呆然としていると、ビクが突然ーージェラの横を指差した……
ジェラもつられて、そちらへ顔を向ける……
「あっ……」
檻のなかにいる〈ムー〉が、いつの間にか、美しい立ちすがたにーーエメラルドグリーンに輝く瞳を、二人へ向けていた。
「……こいつも、話を聞いてたんだな」
つぶやいたビクの顔には、穏やかな苦笑が、浮かんでいた。
《長く暗いトンネルの終わりを迎えたときーー二人は、白銀の光が満ち差す出口へと、導かれていくのだった。 二人の背後でーートンネルは再び、ゆっくりと……朱色の扉が閉められていく……。 音なく封じられた扉には、青々と瑞々しい蔦のすがたが、風に美しくそよいでいた……》