第七章•檻のなかの聞き手㊀
背後で、物音がしたかと思うと、鈍い音が響き渡りーー扉が開かれた。
部屋に流れ込んできた風にのって、むっとした匂いが、鼻をつくーー
野性味あふれる獣の匂いとーー濃厚な鉄の匂いーー
昼中の降り注ぐ陽光を受けて、鮮やかな金色の髪を光らせたビクが、部屋の入口に、現れるのだった。
ビクは片方の手に、短弓をもち、背からのぞいた筒からは、白い矢羽根のすがたが見えている。
ジェラの視線は今ーービクの、もう片方の腕の中にあるものへ、向けられているのだった。
しなやかな体をした、一頭の美しい牡鹿が、力尽きた身をのばし、ビクの脇へ抱えられていた。
目を引く枝角は、体のわりにまだ小さく、その大輪を咲かす前に、主の命は摘み取られてしまった。
ほんの数時間前にはーー大きな黒い瞳に、瑞々しく、生命の光を宿していたであろうが、今ーービクの腕から、だらりと垂れ下がった小さなかおには、まるで色のない虚空を見つめるような、虚ろな瞳が、浮かんでいた。
ジェラはもういい加減、慣れなくてはいけないと、わかってはいたのだが……どうしても、心の内に湧く暗い感情を、消し去ることはできなかった……。
心臓がーーズキンっ……と、冷たく全身を打つ……。
ビクは、そんな相棒の顔を見るなり、眉間に険しく皺を寄せ、苛立った声を放つのだった。
「人が捕ってくる獲物を、毎度毎度、そんな目で見るな。俺だって、別に好き好んでやってるわけじゃねえ。仕方なく、やってんだ。おまけにこっちは、毎度毎度ビビって、葬式みたいな顔をするやつのために、わざわざ、クソめんどくさく、刺さった矢も抜いて、傷口だってできるだけきれいにしてやってから、もってきてんだ」
「……すみません……」
ジェラが消え入るような声で謝ると、ビクはふんと鼻を鳴らして、部屋へずかずか入ってきた。
脇へ抱えていた牡鹿を、床へドサっと下ろす。
ジェラはその瞬間、やはり反射的に牡鹿から、少し距離をとるように、壁際へ後ずさるのだった。
広い部屋の両側にある窓は、分厚い板で完全に塞がれていたため、高い屋根の部分に設けられた、明かり取りの窓から差し込む光が、床に横たわる牡鹿のすがたを、ちらちらと舞う塵と共に、照らしていた。
ビクは、顔を俯けたままでいるジェラを見ると、短く息を吐いて、口を開いた。
「それにしても、この長い髪はうっとうしくてイライラする。たかだか髪ごときで、バカみてえに重いしな。やっと昔のお偉いやつたちの気持ちがわかった」
先ほどとは口調の違う、ビクなりに、おどけを含ませた声だった。
「今まで何度も切ってやろうと思ったが、腐ったこの国では、頭痛のする髪がいろいろと役に立つのも事実だ。ーーまぁ、勝手に切ったところで、あの野郎に殺されるだけかもしれねぇけどな」
視線の先にいる相棒が、変わらず暗く俯いたままでいるのを見ると、ビクは小さく舌打ちをする。
足音を立てて壁際へ行き、大きなランプののる台に、持っていた短弓と矢筒を置いた。
身軽になった身を、再びジェラへ向ける。
「おまえも、こいつを押し付けられたんなら、エサになるような獲物のひとつでも捕ってこい。胸糞悪い〈嗅覚〉のおかげで、山なんかに入ってもすぐに、鹿だ兎だ猪だの、見つけられるしな。このままビクビクしてたって、どうにもならねぇぞ。 やるか、やらねぇかだ」
言っとくがダジャレじゃねぇからな、と、最後に付け加えるのだった。
ジェラは、顔を上げたものの、なにも言えず……白い唇を、ぎゅっと閉じていた……。
そうして、部屋に重い沈黙が流れるとーー少しして、いかにも大きなため息と共に、ビクの声が通るのだった。
「で、〈ムー〉の様子は?」
黒い視線が、広い部屋を隔てる、巨大な鉄格子へ向けられる。
ジェラは、力なく首を振るのだった。
「まだ水も飲んでないのか?」
「はい……」
「おまえが山で汲んできた湧き水もダメか?」
ジェラが、暗い表情に頷くと、ビクの顔がみるみるうちに険しくなり、ばっと上がった手が、そのまま金色の髪を荒々しく掻きむしった!
「食べないっ!飲まないっ!で、こいつは本当に大丈夫なのかっ!俺たちがなにをやっても、まったくの無駄じゃねぇかっ!いくらあいつに死なせるなって命令されたところで、俺たちにはもうお手上げだっ!」
たまった怒りを吐き出すように言い放つ!
激しい声が消えるとーー部屋のなかに再びーーしじまが、押し包むのだった……。
沈んだ褐色の瞳がーー忌まわしい鉄の檻へと、向けられる……。
なかに繋がれた〈神獣〉は、白銀に輝く、美しいからだを、床へ静かに伏せていた。
向けられた視線には、まったく目もくれず、匂いは感じているだろうに、目の前にある牡鹿の存在にも、まるで興味がないようだった。
ただただ、美しい目に、どこともいえず、遠くを見つめるようにーーゆっくりと、呼吸をしていた。
「……このまま死ぬことを、こいつは望んでいるのか……」
ビクが低い声に、つぶやくーー
「俺たちがミゲの野郎に連れてこられて、こいつと出会ってから、もう六日が経つ。明日になれば、一週間だ。ーー最初に見たときよりも、明らかに弱ってると、思わないか……」
ビクが放った言葉はーーまさに、ジェラが心の内で、冷たく抱えていた不安と、同じものだった……。
見た目に、どんどん痩せ細っていくような、大きな変化はないものの、こうしてずっと、傍で時を過ごしていると、不思議なものでーー最初の頃は、まったく気づくことさえなかったような、些細な変化も、今は敏感に感じ取れるようになっていた。
〈ムー〉の呼吸は、最初の日よりも、微かではあるが、だんだんと荒い音が混じるようになりーー澄んだエメラルドグリーンの瞳も、この数日の日々を過ごすうちに、光を宿した輝きが、それは少しずつ、霞んでいくように、徐々に失われているような気がした……。
解放される時がなく、太い鎖の伸びた、忌まわしい首輪に繋がれて、〈ムー〉は、それに抗う様子も見せず、ただじっとーー今のように、その大きなからだを、床へと伏せていた。
二人が、初めてこの部屋へ入り、息をのんだ、あの神々しい立ちすがたも、今ではほとんど、見られなくなっていた。
「……こいつはなんで、食べ物も水も、まったく受けつけないんだ」
ビクのつぶやいた言葉に、ジェラの暗い瞳がーー檻のなかに置かれた、白い陶器の器を見つめる……。
口の広い器には、清らかな水が、減った様子もなく張っていた。
「ウンコどころか、ションベンもしないで、とても生きてるとは思えねぇ」
ビクの言葉は露骨であったが、確かにいくら〈神獣〉といえども、こうして今、現に呼吸をし、生きているのであれば、お腹も空いて……喉だって渇くだろう……。
ビクもジェラも、それがなぜだかはわからなかったが、瞳に映る〈神獣〉が、そのどちらも感じていないとは、思えなかったのである。ーーだからこそ余計に、影のような不安が、日を追うごとに濃く増していき、纏わりつき募っていく焦りに、苛立ちとやりきれない思いを、抱えていた。
「街にある店で、一番上等な肉を手に入れても、こいつは、まったく見向きもしなかった」
〈ムー〉を睨み据え、忌々しげに、ビクが言う。
「そのせいで俺が、わざわざこいつらを捕ってくるはめになったが、それもこのざまだ」
黒い目が、床に横たわる牡鹿に移り、苛立たしく息が吐き出されるのだった。
ジェラも、そして、情報通なビクでさえもーー〈秘密組織〉という、自分たちの存在が、果たしてこの巨大な帝国のなかで、どのように扱われているのかは、わからなかった。
だが、少なくともーー目覚めたときにはすでにあった、ひと際長い髪がもつ、特別高い身分と、おそらくは、ミゲの抜かりのない完璧な手腕とで、必要なものはなんでもすぐに、あらゆる物が集まる帝都の街で、手に入れることができたのだった。
ジェラは、その〈ズコー〉で、見た目にもさまざまな人種とわかる、行き交う多くの人々が、それぞれ色味と大きさの違う、〈銀〉でできた丸い硬貨を、〈ポドス〉と呼びーー『セレ』や『シール』、『ソ』といった、おそらくは値段の単位らしき言葉と共に、しきりにやり取りしているすがたを、何度か見たことがあった。
丸く美しい硬貨にはどれも、同じ人物の顔が彫られていてーー〈頭の中央で、真っすぐにわけられた長い髪と、妖艶に繊細な顔立ちが、なんとも印象的なすがただった〉ーーお金に彫られるほどの人物といえば、よほど高い身分であるはず。
たった一人の人物ーーとなると、その顔の持ち主こそ、ミゲの言っていた、あのテーダという、帝国の〈生ける神〉なのだろうとーージェラは考えていた。
そのことをビクに話してみれば、やはりビクも、同じことを言っていた。
そして、ジェラ自身が、そんな硬貨を、一枚でも持っているはずはなかったが、あるとき空腹に耐えかねて、どうしても食べるものがほしくなり、勇気を振り絞って、街の店へと行ってみたときには、驚いたことに、強面な店の主人が、ジェラを見るなりがらりと相好を崩し、それはジェラが困惑するほど、大層丁寧にもてなし、望むものをすんなりと、渡してくれたのだった。
「その鹿は……」
長い沈黙にーージェラが口を開く……。
すると、すぐにビクの声が返ってきた。
「わかってる。俺があとで、また街の肉屋にでも持っていく」
ビクの目は、足下に横たわる牡鹿のすがたを、じっと捉えていた。
「おまえがいくら信用しなくても、自分の手で殺した命を無駄にするほど、俺はまだ腐った人間じゃないからな」
淡々と言ってビクは、向けられた視線に気づくと、さっと床へ屈むのだった。
最後にもう一度、試してみようと、横たわる牡鹿の長い足を、両手で掴み、〈ムー〉のいる檻へ、ぐいっと押して近づけたーーだが、結果は同じだった。
「チっ……やっぱり興味ねぇ」
ビクは舌打ち交じりに吐き出すと、むくっと立ち上がり、掌についた汚れを、バンっバンっと打ち払った。
「少し休んだら、食い物の調達がてら、街へ行ってくる」
声のしない沈黙にーー太い眉を寄せて、相棒を見るーー
「おい……」
声がーーしじまに吸い込まれた……
黒い瞳に映るジェラは、真っすぐにーー〈ムー〉のすがたを見つめていた。
下ろされた両手は、震えるほど強く握られーーいつも怯え、不安ばかりを滲ませた瞳がーーはっとするほど強い光をーービクがはじめて見る色を、映しているのだった。
ビクは黙ったまま、殻の内へ入ったジェラのすがたを
、見据えていた。
ふいに、檻のなかでーー〈ムー〉が気配をみせる……すると、優美にのびた口先が開かれーー一瞬、思わずドキリとするような、白く鋭い歯牙がのぞくーー。そのなかに、青紫色をしたやわらかな舌も、見えるのだった。
二人は共にーー息を詰めてーーその光景を見つめていた……。
〈ムー〉がはじめて、あくびを、してみせたのだ。
ビクが、ぶっと吹き出す。
「すげぇ菓子でも食ったような舌だな。……こっちの気もしらねぇで、のんきなやろうだ」
ジェラの結ばれていた口元にも、小さな笑みが浮かぶ。
「もどってきたな」
ジェラがはっと見ると、目の前に、ビクが立っていた。
黒々とした眼差しが、真っすぐに見据える。
「ここへ連れてこられた日、ミゲのやつが現れる前に話してたこと、覚えてるか」
突然の言葉に戸惑い、緊張しながらも、ジェラは頭のなかの記憶を、懸命に思い起こした……。
「……最後に……なにか、言おうとしていた気が……」
しばらくして、ジェラは自信なさげに、答えるのだった。
ビクは、相手の答えを聞いても、すぐにはなにも言わず、そのまま黙っていた。ジェラが間違っていたのだと、おどおどしているとーー突然、部屋の隅へ、歩いて行くのだった。
そこに置かれていた、二つの小さな木の腰かけを手に持ちもどると、一つをジェラの前へ、もう一つを向かい合う自分のもとへ、ガタンっと置いた。
ビクは無言で座り、目の前にいる相棒にも、目顔で座るように伝える。
ジェラは、相手が怒っているのか、不安になりながらも、静かに従い座るのだった。
長い沈黙にーービクが、切り出す。
「別に今さらして、大した話でもねぇが、おまえとはこうして、厄介な仕事を押し付けられた、不運な仲だしな。……クソみてぇな〈過去〉を話したって、バチが当たらねぇような気がした。 まぁ、おまえが聞きたくなきゃ、無理にはしねぇ」
ビクは、いつもと変わらない口調に、言っているつもりだったが、そのすがたはどこか落ち着かず、大きく開いた足を、絶えず小刻みに揺り動かしていた。
「……話していただけるのなら……聞いてみたいです……」
ジェラが細い声を返し、目の前に座る、ビクの顔を真っすぐに見つめる。
ビクは、ジェラと目が合うと、その視線を部屋の隅へそらし、短い間に、口を開くのだった。
「おまえももう、とっくに気づいてるだろうが、俺は人さまより、荒れ狂った人生を送ってきた」
淡々とーー言葉が響くーー
「こんな言い方であってんのかわからねぇが、自分のなかに、いつも〈嵐の種〉のようなもんがあって、それがことあるごと、周りと俺自身をのみ込んでいくんだ。一度その〈種〉が開いちまったら、〈嵐〉がおさまるのを待つしかねぇ。想像できるだろ、一度はじまれば、もう手がつけられなくなる。……おかしな話に笑えるが、自分でさえも、激しい感情にのまれて、どうにも止められなくなるんだ」
ビクは一息に言い終えると、口をつぐんだ。
深い沈黙が満たした部屋のなかーー向かい合い座る、二人の横に見えた檻のなかから、〈ムー〉の吐き出した、荒い息の音がこだます……
じっと床を見つめていた、黒い瞳がーージェラを捉える。
「おまえには偉そうに言ってたが、いざやってみると、なかなか思うようにはいかねぇもんだな」
苦笑が浮かび、笑みが引くと、真剣な眼差しが見据える。
「でも俺は、最後まで話すから、そこで聞いててくれ」
相手が、小さく頷くのを見ると、固い表情が束の間、和らぐのだった。
ジェラは改めてーー向かい合う、青年のすがたを、見つめた……。
倉庫で、初めて会ったときからーー相手はいつも、〈棘のある鎧〉を、その全身に纏っているようだった。
最初のうちはジェラも、自身が最も嫌い、苦手に思う、とても乱暴な人物だと、恐れるような気持ちをもっていたが、この〈ムー〉の建物へきて、共に数日を過ごすうちーー最初に抱いたその思いは、少しずつではあったが、変わりつつあるのだった。
言葉遣いや、態度にはーー相変わらず攻撃性があったが、その強く構えたすがたとは裏腹にーーまるで、なにかを恐れているようなーー本当は、とても繊細である、自分自身を守る手段の一つとして、〈鋭い棘の鎧〉を、纏っているのではないかーーそんなふうに、ジェラは感じるようになっていた……。
……『おれたちには、目に見えない〈かさぶた〉がある。ーーその〈かさぶた〉が塞いでるものは、人それぞれだ』……
あの日ーー倉庫で、ビクが言い放った言葉ーーー
人知れず苦しみを抱えーー深い傷を負いーーそこには、向き合うことを恐れる……けれども、受け止めなくてはならない、弱さ、脆さがある……
さまざまな思いが、胸の内に去来するなかーー耳へ届いた、ビクの声に、ジェラははっと我に返った。
「俺にはな、弟がいた。ーー男二人兄弟で」
深い静寂に放たれた一言はーーその瞬間、二人の人物を、《過去というトンネル》の入口へーー誘うのだった…………