第六章•〈ガンダ国〉
男は、卓上に広げられた、羊皮紙の巻物と、もう何時間も向かい合っていた。
しばらくの間国を離れーーようやく自室の、座り慣れた椅子へ腰を下ろせたのは、つい昨夜のことだった。
男の顔には、まだはるばる長旅の疲れが、色濃く残っていた。
だが、男はその収穫を、今一度すぐに、自身の目で、確かめたかったのである。
赤みの強い、赤褐色の髪をーー頭のてっぺんできっちりとまとめ、真剣な眼差しに、数字を見つめるその顔は、まるでこの男の人となりを、そのまま映し表したかのように、それは凛々しいものだった。
脂肪と筋肉が、バランスよくつけられた、骨太な身体には、風雨にさらされても丈夫な、厚い革衣が纏われーーその身体つき、日によく焼けて、すでに目尻など、細かな皺が刻まれつつあるすがたからは、この人物がいかに、日々厳しい大地と向き合いーーときにその過酷な運命と共に、逞しく生きてきたかを、如実に知ることができるのだった。
壮年な男の見た目からは、まだ十分に若さが伝わり、それと同時にーー髪色と同じ赤い髭が蓄えられた顔には、静かな威厳も滲んでいた。
〈リグターン〉の隣ーー北に広がる、茫洋たる大草原と、峨峨たる岩山とが織りなす、雄大なすがたーー
この人物こそ、北の〈ガンダ国〉を治める、ダダ王であった。
王というーー一つの国の頂点に君臨する、大変高貴な人物であったが、このダダ王は、誰もが想像する、欲深い権力者の、豪奢なきらびやかさとは、まるでかけ離れていた。
纏う身形や、言わば国の顔ともいえる、今いる居城のすがたに、派手な装飾など一切ない。
しかし、そこには落ち着いたーーあたかも、母なる自然に寄り添うような、慎み深い美しさが、たしかに生き生きと、光輝を放っていた。
そして、そのなかでもひと際強く、目を引くものといえば、王の幅の広い両肩にかけられた、至極立派な、〈銀灰色の毛皮〉だった。
この〈毛皮〉は、ダダ王にとって、特別な意味をもつ大切なものでありーー王はいつでも常に、肌身離さず、身につけていた。
新緑の季節といえども、天の模様が悪い日や、陽が暮れ落ちれば、北の地は瞬く間に冷え込み、生活に欠かせぬ暖炉に火を入れる。
北国にとって貴重なこの季節、晴れ渡った日には、束の間長く過酷な冬を忘れ、大地に降り注ぐ陽の暖かさを感じることができた。
この日も晴天にーー窓から澄んだ陽光が差し込む、部屋のなかには、薪の爆ぜる音ではなく、うららかな鳥のさえずが響いていた。
部屋のなかに、深いため息が漏れる。
長いこと、同じ姿勢のまま固まっていた身体から、力が抜けていくのだった。
「この数字が実現すれば……いよいよ希望が、もてるはずだ……」
ダダ王は、他に人のすがたのない部屋のなかーー自身に言い聞かせるように、つぶやいた。
無事に確認を終えた書面へ、王のサインをしたためようと、卓上に据えられた、美しい羽ペンへ手を伸ばすーーと……その手が、ピタリと止まった。
王の顔が、さっと上がる……。
座る卓の正面に見えた、両開きの大きな扉を、じっと見据えた……。
ほどなくして、遠くから微かに聞こえてきた、慌ただしい足音が、こちらへとーー近づいてくるのだった。
常ならば聞こえるはずの、ノックの音もなしに、部屋の扉が開けられるーー
現れた男は、視線の先にいるダダ王と同じ年ほどの、見るからに武術を連想させる、しなやかな体躯をした、俊敏そうな男だった。
深い緑を帯びた黒髪を、後ろできつく一つに結びーー高い頬骨の上には、目尻の長い印象的な目が、強い光をもって開いている。
今、見交わす二人ーー表にははっきりと身分の違う、この二人の人物が出会ってから、もうずいぶんと、長い月日が流れるのだった。
そのなかで、冷静さを欠くすがたなど、これまでほとんど見たことがない男の、緊迫した青ざめた顔を見れば、一目でーーなにかただならぬ事態が起こったことは、もはや容易に察せられた。
ダダ王の内にーー不穏な胸騒ぎが襲う……
「ゾン、何事だーー」
立ち上がった王が、張り詰めた声を放つーー
側近の男は、すばやく扉を閉め、礼をみせるのだった。
「ダダ様、ご無礼をお許しください。今しがた城に、〈シシン族〉の首長ドドア殿と、御子息ドマ殿が、お見えになりました」
王の太い眉根がーーぐっと寄る……。
ざわざわと激しさを増す胸騒ぎのなかーーあらゆる考えを巡らせているとーーダダ王の耳に、再びゾンの声が通った。
「お二人は、〈赤馬〉に乗られ参られたのです」
「〈赤馬〉だとっ!……」
王の見開かれた瞳に、叫びにも似た声が、部屋のなかに響き渡った……
常ならば、〈シシン族〉の者たちが使う馬も、ダダ王たちが使うのと同じ、この〈ガンダ国〉で生まれ育った、濃い茶色の毛をした〈茶馬〉たちだった。
しかしーー彼らには、他にもうひとつ、決して表には見せない、〈特別な存在〉が、あったのだ……
この世でーー〈月の民〉のあいだにだけ存在する、その名の通りーー燃え盛る炎のごとく、真っ赤な毛をした〈赤馬〉ーーー
そのすがたを実際に見た者は、皆無に等しくーーそのため、世に知られるーー《〈月の民〉の〈赤馬〉の伝説》ーーは、浮説に、信じていないものがほとんどだ。
また彼らは、未だ謎の多いとされる民族でもあったため、その揶揄も含めて、東西南北ーー話の種に、知られる程度のものだった。
しかし、ダダ王はーー忘れもしない、そのすがたを……今も鮮明に憶えていた……
あれは、今から十年ほど前のことーー多くの困難を乗り越え、ようやく彼らに、国の王として、認められるに至ったときのことだった。
ダダ王は、互いの間にある溝を、少しでも埋められたらと、その架け橋となるよう希望を込めて、〈月の民〉に多くの〈茶馬〉を贈った。
彼らは、その贈り物のお礼にと、王に一度だけ、住居である岩窟の隠された奥深くーー本物の〈赤馬〉のすがたを、見せたのだった。
そして、その際ーーダダ王は、まだ少年のあどけなさが残る、ドマという名の、心優しき首長のひとり息子と出会い、すぐに彼と打ち解け、《〈月の民〉にとっての〈赤馬〉の意味》ーーというものを、教えてもらった………
額に浮いた汗が、こめかみを流れ落ちる……。
ダダ王は、激しく打つ鼓動のなかーー深く息を吸うのだった。
「ドドア殿は、私に……面会を求めているのだな……」
王の掠れた声に、側近のゾンは、「はい……」と、同じく掠れた声で答えた。
握られた拳が、ドンっと卓を打つ!
「なぜだっ!……なにが起きたというのだっ!……なぜっ……」
瞳を揺らし、目まぐるしく考えを巡らせていく脳裏にーー突然、閃光が走るのだったーー
凍りついた双眸がーー大きく見開かれる……
「まさか……」
王の内にーーひとりの人物のすがたが、冷たく浮かび上がるのだった……
銀白色の長い髪ーー氷のように冷ややかな、薄い青の眼ーー
呆然とした王の目がーー側近へ向けられる……。
ゾンは、乾いた唇を湿らすと、王を真っすぐに見つめ、覚悟の表情に、口を開いた。
「〈月の民〉の聖域から、〈ムー〉が、奪われたのです……」
息をのむ音が……部屋のなかに消えていった………
ダダ王が心より信頼をする、側近のゾンもまた、〈神獣〉の存在を知る、限られた人物の一人だった。
王が血の気の失せた唇を、開こうとしたときーー突然、騒々しい足音と声とが、嵐のように迫ってきたーー
廊下から伝わる、そのただならぬ様子に、二人の視線がぱっと合わさると、次の瞬間には、王を背後に守るかたちで、側近のすがたが立っていた。
ゾンは、目を見張る身のこなしに、腰に携えた剣の柄へーーすでにその手をかけていた。
二人は、正面に佇む扉を見つめーーいよいよやってくる嵐に、身構えるのだった……
……「とまれっ!……とまるんだっ!……おいっ!……早くそちらへまわれっ!……なんとしてもとめろっ!……」
入り乱れた叫び声ーー怒号が、扉のすぐ向こうで聞こえた刹那ーー両開きの扉が、勢いよく開け放たれる!
二人の視線の先にーー大勢の兵士を引き連れた、ひと際大きな男が、現れるのだった。
がたいのよい、〈ガンダ国〉の兵士たちでさえ、中心にいる人物とは、一目にわかる体格差があった。
まるで、夜空のような美しい青藍の髪ーー深い青の眼がーー底光る眼差しに、王のすがたを捉えていた。
「なにをしているっ!私がもどるまで、部屋で待っていてもらうはずだっ!」
部屋の扉が開くと同時に、剣を引き抜いたゾンが、相手に視線を刺したまま、鋭く声を飛ばした!
「申し訳ありません!」
痛々しく、肩をおさえたすがたの兵士が声を返す。
男の後ろから、足を引きずった兵士たちも、部屋に入ってくるのだった。
そのすがたを目にした途端ーーゾンの瞳が、さっと色を変える。
固い光を宿しーーたちまちに殺気が、構えた全身を包み放たれたーー
「派手に暴れたうえ、王の許しなく押し入るとあらば、たとえ首長とあっても致し方ない……すぐに捕らえろっ!」
「はっ!」
男を取り囲んでいた、大勢の兵士たちが声を上げ、一斉に腰にある剣を抜き放つ!
「よせっ!ーー」
響き渡った王の声にーー兵士たちの動きが、ピタリと止まる……
「ゾン、さがっていい。 みなも、剣をしまうんだ」
王の言葉にーー一瞬の沈黙があき……戸惑いを映した兵士たちが、静かに従う。
ゾンは、油断なく相手を睨み据えたまま、最後に、己の剣を鞘へ納めた。
そして、変わらず鋭い視線を離すことなく、王の前から、ゆっくりとわきへ退いた。
ダダ王は、隔てていた卓をまわり、相手と向かい合う。
部屋にすがたを現してからも、不気味に口を閉じたまま、じっと前を見据えていた男が、不穏な沈黙にーー声を放つ。
「ダダ様ーーこのたびの無礼な行い、どうぞお許し願いたい」
太くーー朗々とーー鼓膜から腹にまで響くような声だった。
「ことが、まことに深刻を極めますゆえ、我々としても、少々の手荒は致し方ないとーーそう覚悟しております」
ただ一人、落ち着き払いーー顔色一つ変えないその面にはーー青々と開かれた眼だけが、威光をもって存在していた。
ダダ王は、突き抜けるような眼光を、そらすことなく、真っすぐに受けていた。
触れればーーその瞬間に、パリンっとひび割れてしまいそうな、極限に張り詰めた空気のなかーー相対する二人の間にーー異様なときが、流れていった………
「……私は、どうすればいい……」
ダダ王の声が、息苦しい沈黙に響くーー
「〈シシン族〉の首長である、あなたが望むなら……今ここで、この〈命〉をもって、償おう……」
静かに放たれた、王の言葉にーー兵士たちの息をのむ音が、部屋中にあふれた……。
王の傍らに控えていたゾンも、はっと目を開き、仕える主のすがたを見つめたが、王の瞳は真っすぐに、首長の青い眼だけを捉えていた。
水底のような、しじまが満たすーー
ドドアの瞳がーー一瞬感、わずかに光を変えたが、それはすぐに、またもとの底光る眼光へと、もどるのだった。
「今ここでーー王のお命をいただいても、ことは、なにも変わりません。 我々はあくまでも、我々のやりかたで、奪われた誇りを、取りもどします」
地の底から響くようなーー圧倒的な声だった。
ドドアの大きな身が翻ると、開け放たれた扉から、あっという間に消え去った。
現実と悪夢の狭間にーー部屋にいる誰もがーー茫然自失と……その場に立ち尽くしていた………
「ダダ様……」
最初に声を取りもどしたのは、側近のゾンだった。
「ああ……わかっている……」
王は、視線の先にある、開け放たれた扉を見つめたまま、震えた声で、つぶやいた。
「ドドア殿は……ここへきて、〈ことの真実〉を、見抜いたのだ……」
「では……」
強張った側近の顔に、王の目が向けられる。
「ゾンーー一刻も早く、〈リグターン〉へ〈警文書〉を送る。すぐに早馬を用意してくれ」
「かしこまりました」
「それと、南の〈ラッタ国〉にも、至急文を出したい。ーーナダにも、ことの状況を、知らせておきたいのだ」
「承知いたしました」
「……今の私にできることは、もはやそれまでだ……」
王の手が、声に滲む苦悶と共に、固い拳となって、握られる……。
いつのまにか青天に雲がわき流れ、遮られた陽に、静まり返った部屋のなかが薄暗くなるーーキュールルル……と、長く尾を引く、心悲しげな鳴き声が、響き渡るのだった……。
誰もがーーその声を、黙って聞いていた……。
鳴き声が消えーーゾンが礼をし、部屋を出て行こうととしたときーー突然、声が通った。
「……恐れながら、〈ムー〉とは、一体なんなのでしょうか……」
大勢いる兵士のなかで、身体つきも一回り細く、まだ少年の面影を残した、若い兵士が、決意を滲ませた眼差しに、王のすがたを見つめていた。
「王が、お命をもって償わなければならないほどの、罪とはなんなので……」
「おいっ!申し訳ございません!この者は、まだ城へきたばかりで……」
隣にいた年長の兵士が、呆気にとられていたすがたから、我に返り、慌てて若い兵士の頭を掴むと、無理やりに下げさせるのだった。
「よせっ! いいんだ」
王の声が響き、それでも頭を下げたままでいる、二人の兵士に、ダダ王は、改めて声を放つ。
「頼むーー二人とも、顔を上げてくれないか」
長い沈黙の後、二人の兵士が顔を上げるのを見届けると、王はゆっくりと部屋を見渡しーー自分を見つめている、多くの兵士たちのすがたを、眺めていった……。
その瞳に映る、兵士たちはみな、明るい褐色の肌に、油気のない黒髪を、頭のてっぺんに、小さくまとめていた。
濃く太い眉と、きりりとした目ーー勇ましい顔立ちの彼らは、ダダ王がこの地にやってくるはるか昔から、先祖代々にわたり、北に広がる厳しい大地に、強く逞しく生きてきた、生粋の山岳民であった。
今に至る深い絆ーー強い関係を築くまでに、本当に……たくさんのことがあった……。
ダダ王にとって彼らは、〈ガンダ国〉を共に守る、勇武な兵士たちであり、それと同時にーーその身分を越えて、多くの艱難辛苦を共にしてきた、かけがえのない、仲間たちであった。
部屋にいる兵士たちの顔を、一人ひとり見ていった王の視線がーー最後に、ゾンへと、向けられる。
〈ガンダ国〉の兵士たちとは、明らかに生まれのちがう容姿をした側近はーー王を真っすぐに見つめ返し、小さく、頷いた。
再び、前へ向けられた王の顔に、もう迷いはなかった。
ひとつ、深く息を吸う……
「みな、すまなかった。 おまえたちにも、話しておかなくてはならない、大切な話がある。 これからーーすべての兵士を集めて、私の口から伝えよう。だが、その前に、怪我した者たちは、すぐに手当てを受けてくれ」
ダダ王は言うと、先ほどの若い兵士の前へ、足を進める。
「君はたしか、カントルの甥の、ヨウカン……だったか」
「はい……」
「ヨウカン、ありがとう。勇敢な心をもつ君に、私は背中を押してもらった。これからも共に、この国を守り築いていこう」
若い兵士は、王の言葉に、純真な瞳のまわりを赤く滲ませ、深く頭を下げるのだった。