第五章•犯された禁忌
「こっ……これはっ……!」
篝火の照らす先ーーおぞましく浮かび上がった光景に、息をのむ……
猛々しくも、荘厳な岩たちが生み出した、この〈巨大な洞窟〉は、〈月の民〉と呼ばれる、〈シシン族〉にとって、なによりも大切な聖域だった。
はるか代々にわたり、自分たちの祖先から受け継ぎ、守り続けてきた誇りーー。
〈シシン族〉の者たちは、仰ぎ見る高きにある、青く澄んだ〈氷塊〉のなかーー気高き〈神獣〉のすがたを、心から崇め奉ってきた。
しかし、今ーー人々が、血の気の失せた、青ざめた顔で見つめているのは、神聖さとは程遠い、あまりにも生々しく、無惨な光景だった……
「……〈ムー〉が……いない……」
戦慄きーー愕然とした声がこだます……
「どうだーー」
広い洞窟を埋める、大勢の人々の先頭に立った、立派な鷲鼻の豪毅な顔にーーひと際堂々たる体躯をした、どっしりとした風格を纏った男が、目の前に屈む息子の背へ、野太い声を放つ。
淡い褐色の肌にーー両の長い耳朶には、美しく削り出された動物の骨が、見事に貫いているーー。
男を含め、洞窟中に見える人々はみな、まさに、〈月の民〉と呼ばれる名にふさわしい、風貌をしているのだった。
彼らの髪は、まるで皓皓と輝く月の光が、夜空を照らしたような、深く鮮やかな、青藍を帯びている。
男たちはみな、きれいに髭を剃りーーその長い髪は、母親の腕に抱かれた赤子からーー小さくなった身に、今なお光る青い眼ーー慧眼な目つきを湛えた古老たちまで、老若男女ーー一様に美しく編み上げ、それは流れるように、頭部を覆い飾っていた。
片耳に、父親と同じ、見事な骨の耳飾りを通した息子のドマが、岩の地面に膝をついたまま、震える唇をぎゅっと噛み締め、力なく首を振る……。
一瞬の沈黙があきーー刹那、胸を張り裂くような慟哭が、洞窟内に響き渡ったーー
「ルハ!……」
「イリゼ!……」
「スーラ!……」
「セフ!……」
泣き崩れた者たちの、悲痛な叫びーー変わり果てた息子、夫の傍へ、身悶えしながら行こうとする母親、妻たちを、周りの者が歯を食いしばり、涙を流しながらにとめる。
「……ドドアさまの、お言葉を待つんだっ……」
呆然とーー冷たい岩の上に膝をついたまま、ドマは背後にこだます、耳を塞ぎたくなる多くの声を、どこか遠くから……耳にしているのだった……。
身体中の力が抜け……声というものを、失ったような……現実ではなく、悪夢のなかにいるような……そんな気がした……。
虚ろな視線の先にはーー逞しい体躯をした、四人の若い男たちが、見るも無残なすがたに、横たわっていたーー
赤ん坊のころから、共に育ちーー生きてきたーーかけがえのない友……
その冷たく動かぬ身に、生々しい血の跡や、目を覆いたくなる酷い傷口は、一切見当たらない。
しかしーー精気の消え果てた目は、襲った恐怖のなごりを映しーー土気色の顔は、本来あるべき位置とは、真逆に捻られーー泡を吹いた跡が残る、苦しく歪んだ最期の表情がーー目にした者の胸に焼き付き、深く抉るのだった……。
彼ら四人は、二年に一度、〈星国〉と呼ばれる、それぞれの地へと散らばった、兄弟たちとの集いのため、〈かぞく〉総出で向かい発つ間の留守をーー(病人や、赤子を孕む母親、老齢な者たちは、聖域の洞窟にほど近い、岩窟住居に残る)ーー守る代表として、任された者たちであった。
ドマの頬を伝い落ちた涙が、岩の上に、黒い模様をつくる。
「……みんな……すまない……苦しかっただろう……」
掠れた声が漏れ、膝をついた身が震える……。
手の甲で涙を拭うと、ドマは静かに手を伸ばし、冷たい亡骸となった友の瞼を、そっと閉じるのだった……。
ふらつく足で立ち上がり、残る三人の友の瞼も、同じように、閉じていった。
息子のすがたを、父ドドアは、黙して見据えていた。
ドマが、全員の目を閉じたところでーードドアの右手が、すっと上がるーー
それまで、洞窟中に溢れていた音がーー水を打ったように、静まり返るのだった。
「我らの大切な〈かぞく〉が、四人も奪われた。 ルハーーイリゼーースーラーーセフーー勇敢な男たちの、高潔なる《魂》が、安らかに、我々を照らす月の輝きとなりますようーー」
ドドアは、朗々と声を響かせると、目を閉じーー右手の指を合わせ、輪をつくった形を、自身の横広い額に、あてるのだった。
洞窟を埋めた人々が、同じすがたに、目を閉じるーー
深い悲しみを孕んだ静寂がーー祈りと共にーー岩の空間を満たしたーー
ドドアが、ゆっくりと目を開けるーー
顔を上げ、仰ぎ見る岩にあいた、大きな穴を、凝視するーー
「……ドドアさま、いかがされますか……」
首長の後ろに控えていた男が、押し殺した声に言う……。
ドドアの青い視線がーー再び、地上へ下りてくるのだった。
「ーー〈魔物〉です」
洞窟にーーしわがれた声が通る。
ドドアが、声のした後ろへ振り返ると、埋めていた人々が割れーーその先に、両脇を孫たちに支えられた、一番老齢と見える男が、白濁した両眼に光を湛え、真っすぐに前を見つめていた。
「〈魔物〉が、我らの聖域を襲い、〈ムー〉と〈尊い命〉とを、奪っていったのです……」
「センデーレ、お言葉、しかと頂戴した」
ドドアは、大長老を真っすぐに見据え、太い声を放つ。
燃え盛る松明が、パチパチと爆ぜるーー巨大な洞窟内に、怒りとーー悲しみーー不安の影がーー揺らめき満ちるのだった……
「ドマーー」
威厳ある声が、響き渡るーー
「はい」
ドマは、目の前にある、父親の大きな背を、見つめた……。
「共に育った、仲間たちの最期をーー決して忘れるな」
「はい……」
ドドアは、息子の声を背に聞くと、深く息を吸い込むーー
強い光を宿した目が、洞窟中を埋める、人々のすがたーー〈かぞく〉のすがたをーー眺めていったーーー
「我が〈かぞく〉たちよ! 〈シシン族〉の聖域から、我らの大切なものが奪われた! 我々の向かう相手は、もはやヒトではない! どこまでも穢れた、邪悪に残忍な〈魔物〉たちだ! しかし! やつらは、じきに思い知るだろう! 禁忌を犯した、その恐ろしき罪の深さをっ!」
あらゆるものを打ち震わせてーーそれは気魄に満ちたーー圧倒的な声だったーー
「〈月の民〉の誇りをかけてっ! 命をかけてっ! 我らの奪われた〈心〉を取りもどすっ!」
••••••••••••
「ウロォォォーーーーーーン…………」
見事な遠吠えが、こだましたーー
それは、〈シシン族〉に古くから伝わる、〈ムー〉の遠吠えを模した、神聖なかけ声だった。
男たちのあげる遠吠えは、次々に広がっていきーーやがて、巨大な岩の空間を、揺らし震わせるのだった。
人々の顔に、失われたかけていた〈光〉が吹き返しーー力強い眼差しとなって、青い瞳に宿っていく……。
ドドアは、未曾有の試練に、一つとなっていく、〈かぞく〉のすがたをーーその開いた目の奥深くに、焼き付けていた。
ドドアの顔が、背後にいる、ひとり息子へ向けられる。
「ドマ、〈馬〉を用意しろ」
強張った瞳が、見開かれる……
「ですが……今日、遠方から帰ってきたばかりで、まだ馬たちの調整が……」
「私が言っているのは、この国の〈茶馬〉ではない。ーー我らの、〈赤馬〉のことだ」
「〈赤馬〉っ……」
ドマは息をのみ……凍りつく……
戦慄が身を駆け抜け、噴き出した冷たい汗が、こめかみを伝い落ちる……
「我らの〈赤馬〉を、今こそ使うのだ。ーー頼んだぞ」
ドドアは、息子に命をだすと、再び大きな身を翻した。
「〈かぞく〉たちよ! 私はこれから、ドマと共に城へ向かう! なぜなら、我らの聖域と、〈ムー〉を知る者は、この国の王をのぞいて、他にいないからだ!」
赤く燃え盛る篝火に、首長を見つめる、人々の顔が照らしだされる。ーーその顔は、沸き立つ怒りに、激しい炎を揺らしていた。
ドドアが、埋め尽くす人々の最前列ーー目の前に立ち並ぶ、屈強な男たちへ、底光る眼を向けるーー
「おまえたちに、重大な命を託す。 これからすぐに、〈星国〉へと発ってくれ。 そして、我が兄弟たちに伝えてほしいーー」
ドドアは、一度ーー言葉を切るのだった。
これからーー己が口にする、その言葉の意味をーー真の重みをーー誰よりも知っているのは、〈シシン族〉の長として立つ、他ならぬ、ドドア自身であったからだ。
もはや、後もどりはできないーー
精悍な顔つきをした男たちは、額に汗を滲ませ、ただじっと……ドドアの言葉を、待っていた……
行く手に、なにがあろうともーー首長を信じ、自分たちは最後まで、この〈命〉を、〈かぞく〉のために捧げるとーー彼らの真っすぐな眼差しは、そう物語っているのだった。
ドドアの、固く閉ざされていた口がーーゆっくりとーー開かれるーー
『〈白夜の遠吠え〉ーーここに求むっ!』
男たちの凄まじい雄叫びが、轟き渡る!
見渡す限りの拳が、洞窟中の天を突いた!
ドマは、その光景を、慄然と見つめるのだった……
厳しく、鍛錬してきたはずの、己の心と身体がーーどうしようもなく、震えていた……
ドマは拳を握り……血の気の失せた白い唇を、ぎゅっと噛み締める……
〈戦〉が……本当にはじまるんだ……