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第四章•〈鷲〉と〈鳶〉㊂

男はーー部屋の窓から、外を眺めていた。


大きな丸窓が、両側につけられた、見晴らしのよい、円柱状の部屋にはーー豪奢な深紅の絨毯が敷かれ、いたるところ、きらびやかな金の装飾品が、眩いばかりに輝いていた。

先のすぼまる高い天井まで、それは圧巻な本棚の壁がのびーー一定の間隔につけられた、明かり取りの小さな丸窓、金の燭台をのぞいてーーありとあらゆる背表紙の蔵書が、すべての壁を埋め尽くしていた。

特注品の壁の前には、美しい螺旋階段のすがたが、優雅に付き添い流れているのだった。


細く鋭い、切れ長の目に映っているのは、華やかに栄える〈帝都の街〉ではなく、遠くーーはるか先に、小さく見えた、〈山〉のすがただった。

髭で飾られた口元に、薄笑いが浮かぶーー

(まだ生きていたとはな……翼の折れた〈鷲〉にしては、上出来なものだ)

ぞっとするような、不気味な笑みが深まるーー

「この地にいたことが、まさに運の尽きーー私の生んだ〈猟犬〉たちが、必ずや、おまえを探しだすだろう……」

男は、唸るようにつぶやくと、真っ白に光る歯をむき出し、高笑するのだった。

紫紺色のーー艶やかな長衣に身を包み、その頭には、白と黒ーー正反対の二色の髪が、縞の模様にのびていた。

男自慢の長い髪は、いかにも仰々しく、上半分をーーたくさんの宝石がちりばめられた、高貴な金の簪で、贅沢にまとめあげられている。

話すとき、薄い唇の片方が歪む癖のある、非情な口元を飾る髭にも、髪と同じ、二色の縞模様が、見えるのだった。

男は、窓から視線を離すと、左手にはまる、美しい〈水晶の指輪〉を眺めた。

「二つがそろえば、もはや私に、できぬことなどない……」

残忍な笑み、細い目がーー部屋の中央に置かれた、玉座のような飾り台にとまる。

そこにはーー異様な存在感を放つ、〈朱色の壺〉が、据えられているのだった。

男が〈壺〉のあるほうへ、踵の高い靴を踏み出そうとしたときーー動きが止まる。ーーほどなく、紫紺色の扉を、叩く音が部屋に響いた。


「ミゲだ」


豪華な扉を通して、聞こえてきた声に、男は見向きもしなかった。

止まっていた高い踵を、〈朱色の壺〉の前へと進める。


「どうぞーー」


空気を震わせ響くようなーー特徴的な声が通ったーー

男の背後で、扉の開く音と共にーー長靴の振動が、深紅の絨毯を通して伝わるのだった。


「珍しいお客様ですね」


相手に背を向けたまま、男がねっとりとした声音に言う。


「ナンバー10が、正式に〈キューア〉に加わった」


ミゲの低い声が、響き渡る。


「それでは、めでたく完成したわけです。テーダ様もさぞお喜びに、ご安心なされたことでしょう」


ミゲは、男の背後で、一分の隙もない眼を刺していた。

「テーダ様には、先ほどご報告した。新たに〈鉛の屍〉が出たときには、すみやかに、〈キューア〉を使うようにとの、お言葉だ」

「そうですか。ーー彼らには、〈特別な能力〉も与えたことですし、〈神人さま〉のご期待を裏切らぬよう、相応の働きをしてもらいましょう」

男の放った、不気味な言葉の余韻が消えーー部屋のなかに、冷ややかな沈黙が支配するーー


「バルダナ、おまえは、最後のナンバー10こそが、なによりも大きな力だとーーそう言ったな」


ミゲの声がーー沈黙を打ち破る。

視線の先に映る男の背に、読み取れる変化は微塵もなく、まるでーー呼ばれた名に、応えるかのように、鷹揚に振り返った。

蒼白いーー彫刻のような顔ーー

完璧な曲線を描く、細い眉が吊り上がる。

(いつ見ても、気色が悪いやつだ)

ミゲは今ーー対峙する、道化師を思わせる男に対して、改めて、不快な嫌悪感を強めるのだった。

さかのぼること、十数年前のことーー突如として現れた、この男ーー

そのすがたを、はじめて目にしたときから、どこかうかがい知れぬ人相ーー不気味に滲み出る、冷酷なまでの狂気性をーーミゲは一種の危険物として、それは今に変わることなく、認識していた。

ミゲの脳裏にーー鮮明に焼きつく記憶が、よみがえるーー


……『わたくしの、卓越した呪術の腕は、必ずや、この素晴らしき帝国のますますの繁栄にーー偉大なるあなたさまの、思い描かれる光輝なる未来にーーお力添えをすることでしょう』……


男は、誰もが目の前にすれば、まともにその目を見ることができず、額ずき、恐れ震え上がる存在である、〈生ける神〉を前に、昂然とーー言い放ってみせたのだ。

そして、時を置かずーー男の自信は、その心臓に伸ばされた黒い手を切り落とし、見事なまでに、現実のものへとなっていくーー。

大君主の信頼を、もはや揺るぎないものとして、男はその手に握り、掴み取ることができたのだ。

たしかにーー男が現れてからというもの、帝国を支える力の土台が、まさに破格の勢いで、膨れ上がっていった。

表には、決してすがたを見せずーーそのため兵士たちの間では、〈塔に巣食う毒蜘蛛〉と恐れられーー裏から、糸を巧みに使い動かすようにーーまこと密やかに、帝国の政を操るーーそれが、男のやりかただった。

動かぬ面の内側でーー異臭を嗅いだように、ミゲは顔を歪ませた。

今ーー眼に映る男は、確実に、長い歳月を過ごしてきたであろう者だというのに、男の全身には、相反する、一種人間離れした、不自然なまでの若々しさが満ちていた。

狡猾なーー猛禽のようでもある、その顔は、蝋のように蒼白くはあったが、肌艶は異様なまでに良く、刻まれた皺のすがたなど、ひとつも見当たらない。

そしてーー

ミゲの黒い目がーー向かい合う男の首元を捕らえるーー

紫紺の衣からのびる首にはーーびっしりとーー〈不気味な黒い模様〉が、刻まれているのだった。

文字のようなーー記号のようなーーそれは見たこともない、細かな〈模様〉が、皮膚の上を隙間なく埋めている。

自身の背筋に、冷たい感覚がうまれるのを、ミゲは僅かでも許さず、すぐに抹殺するのだった。

(顔と手だけは、どうにか逃れたわけだ)

ミゲは、その不気味な〈模様〉が、男の首にだけでなく、衣で隠された、細い腕までにものび広がっていることを、あるとき目にし、知っていたのだった。

おそらくは、全身にーー及んでいるのだろう。

(テーダ様も、酔狂なお方だ……)


バルダナは、目の前の相手を、じっくりと眺めていた。

得意なーー含みのある目顔を浮かべて、まるで舌舐めずりするように、相手の言葉を待っている。

ミゲは面を変えず、常の冷静沈着に、沈黙へ声を放った。

「私には、おまえの言った意味が理解できない。実際に、ナンバー10を前にしてみても、大きな力など、その片鱗すら、感じられない始末だ。それどころか、集合場所に、信じ難く遅れてきたやつは誰だと思う。それこそが、おまえの言うナンバー10だ」


「ほう……そうですか……」


長い間に、バルダナがつぶやくーー


「何色でしたか?」


鋭利な眼がーー冷ややかに光る。

「ふざけるなら、相手が違うぞ」

ふつうの人間であればーー思わず竦み上がるような、凄みのある声だった。

しかし、バルダナは、相変わらずゆったりと構える。

「ふざけるなど、滅相もございません。わたくしはいたって真面目に、申し上げているのです。ーーですが、少々言葉が足りなかったようで、お詫びいたします」

ふふふっと、気味悪い笑みが漏れる。

「わたくしが聞きたかったのは、ジェラの〈髪の色〉ーーでございますよ」

くどくねっとりとした、声音だった。

「実に良い名だと思いませんか。〈ジェンラ(不滅)〉ーーから、とったのですよ」

ミゲは、相手の言葉に構わず、口を開くーー

「おまえが、それを知ったところでどう……」

「〈鳶色〉ではないですか」

男が放った、力強い声と共にーービリリとした、不穏な空気が、円柱状の部屋を満たした……。

ミゲは、このあからさまな侮辱に、一瞬間ーー太い眉を険しく寄せたが、すぐにまた、もとの動かぬ面へ、もどるのだった。


「そうだと言えば、どうする」


「素晴らしいっ!……」


雷鳴のごとき叫びが、部屋のなかへ轟いた!

「〈鳶〉は、わたくしの守護動物です!〈鳶色〉はまさに、吉兆の現れーーじきに、我々のもとへ、それは大きな実りが、もたらされることでしょう……」

バルダナは、酔いしれるように、夢見心地で、放つのだった。

(死骸を喰らう〈鳶〉め……)

身の内で、辛辣につぶやいたミゲの顔を、触れればスパっと切れてしまいそうな目が射通す。

「ミゲ殿、くれぐれも用心なさいませ。ーーナンバー10は、やはり、それほどの力の持ち主なのです」

細い目の奥がーーギラリと光る。

髭で飾られた口元にーーふふっと、不吉な笑みが浮かんだ。

「わたくしも危うく……すがたを見られるところでした。なかなかに……そう……なかなかに、鋭いものですよ……」

「どういう意味だ」

低く声を放ったミゲに対し、バルダナはただ、ぞっとするような笑みを深めるのだった。

「とにかく、ご安心を。ーーわたくしの目に、狂いはございません」

ミゲは黙ったまま、縞柄の髪と髭をした、男のすがたを見据えていた。

冷たいしじまが満たしーーミゲが口を開く。

「ナンバー2は、愚か甚だしい」

バルダナは、その言葉を聞くと、小さな笑い声から、ついには堪えきれず、高笑を響かせるのだった。

「なにがおかしい」

「いえいえ……これは、失礼をいたしました。たしかに、ナンバー2ーービクは、そうでございましょうね。なにせ、あれの《光》は、はじめから少々、威勢のよすぎるものでしたから」

やわらかだった男の表情がーー突然さっと、不気味に潜まる。

獲物を見つけた、猛禽さながらの目がーー静かな興奮を湛えて、光っていた。

「ミゲ殿、一見、いかにも平凡を思わせるものほど、内にーーそれは大いなる力を、宿しているものなのです。目に見えるものだけが、力のすべてではありません。わたくしが、魅了されてやまない、《魂》という存在もまた、まさにこれと同じこと……すがた、かたちさえもたぬものが、我々の想像をはるかに超える、偉大なる力を、秘めているのです……」

バルダナは、熱に浮かされたように、ゆっくりと歩き出すーー

「わたくしは、本当に驚きました……。なるほど……たとえ、己が身体を失っても、生まれ落ちた世界とは、この《魂》が、強く繋がっているのだと……。最初に目を開いた場所こそが、《魂》にとって、それは永遠にーー切り離せぬ〈巣〉となるのです……」

「おまえが言っているのは、やつらの〈古巣〉のことか」

男の顔に、ニヤリと笑みが広がる。

「大変興味深いものでした……。僥倖にもーー特別な贈り物が、彼らにできたわけです」

流れるような手の動きーー淀みない弁舌ーー抑揚を巧みに操り、いかにも聞き手を惹きつけさせる、魅惑的な声音ーー変幻自在な面様ーー

視界に映る男が、表舞台に出るような日がくれば、たちまち聴衆の心を掴み、多くの信者に、新たなる一大勢力が生まれるだろうとーーミゲは看過できぬ火種を、監視するのだった。

いつもは決して、相手に優位な立場など、与えぬミゲであったが、薄気味悪い呪術師を前にすればーーどうにも常の調子が狂い、不愉快極まりない思いをする。

湖面のように動かぬ面の裏でーー確実に、ふつふつと……小さな泡を生じさせていたミゲであったが、それはいよいよというところでーー脳裏に重要な件が浮かび、泡は静まるのだった。

ミゲは、ひとつ息を吸うと、口を開くーー

「〈ムー〉のことだが、組織のメンバー二人に、世話を課した。ナンバー2と、おまえの気に入るナンバー10だ」


「完璧ですっ!……」


開いた両手を戦慄かせ、細い目を飛び出さんばかりに、むき出したすがた……。

(……気狂いめ)

バルダナはまたしても、恍惚な己の世界へとーー入っていた……

「ああ……なんと美しい〈神獣〉……!〈ムー〉を、この手でよみがえらせたことは、わたくしの呪術師人生において、間違いなく三本の指に入る、誇り高きことです!」

うっとりと……それでいて激しく、言葉をほとばしらせたバルダナは、しばらくの間、その余韻にどっぷりと浸りーーそして、ようやく、焦点を取りもどした目で、相手の顔を見るのだった。

「ミゲ殿、さすがでございます。ナンバー10を、〈ムー〉の役目につけたご判断、大変によろしいものです。言うならばジェラを、〈ムー〉と結びつけることで、我々にとって、未知なる反応がもたらされることも、十分に期待できるのです」

ミゲの底光る眼がーー男を刺し貫く。

「〈ムー〉をよみがえらせたはいいが、その先を越えてみせなくては、おまえの果たした意味はない」

「むろん、承知しております」

「テーダ様は〈ムー〉を、〈リグターン〉にとって、新たなる〈要〉にされようとしているのだ。ただ一頭の、観賞用では話にならん」

バルダナは、脅しともとれる言葉にも、顔色ひとつ、変えなかった。

「テーダ様は、よそ者であるこのわたくしに、ありあまるご身分を、お授けくださったのです。ーーそのご恩を決して、無用にはいたしません」

バルダナは静かに言うと、金の簪が輝く二色の長い髪を、愛でるようになでるのだった。

「しかしながら、ミゲ殿ーー呪術というものに、焦りは禁物。物事はそう簡単に、望み通りへ、転がっていくわけではないのです。だからこそ、面白いーーミゲ殿も、お分かりなはずです。そして、それは、いかに優れた呪術師においてもなお、あてはまります」

あらゆる角度から、その死角を探し突いてみても、目の前の男はーーいとも容易く避け、跳ね返してみせる。

ミゲは心の内で、苛立たしく舌打ちをした。

静まり返った部屋のなかにーー圧迫的な空気が、満たすのだった。


「バルダナーーおまえはなぜ、〈ムー〉の存在を知っていた」


沈黙をーーミゲの低い声が破る。

すると、今度はすぐに、声が返ってきた。


「むろん、存じませんでしたよ。なんでも、あの美しい〈神獣〉は、〈ガンダ国〉の王と、〈月の民〉の間でのみ存在を知られる、長年ーー秘密にされてきたものでしたからね」


「ではなぜおまえが、その秘密を掴んだのだ」


切れ長の目の奥が、刃のごとく光るーー


「テーダ様です」


「誓って真か」


「はい。記憶力も素晴らしいお方で、昔にちらっとーーそうですね……相手が、思わず口を滑らせた……とでも、言いましょうか……その言葉を、ずっと覚えておいでだったのです」


バルダナは、ここで得意の間をあけた。

そうして、たっぷりと時をかけーー己の言葉が、十分に効き目をもたらしたところでーー再びゆっくりと、口を解くーー


「幸運にも、たまたまーーそのお相手というのが、〈月の民〉のもの以外で、〈ムー〉の存在を知る、唯一の人物であったーーというまでです」


「〈ガンダ国〉の王である、ダダ様かーー」


ミゲの放った言葉にーー呪術師は、満悦の笑みで、応えるのだった。


「逆らえぬ関係性を突くとは、見事な手腕だな」


「いえいえ……わたくしはなにも……」


言葉と裏腹にーー首を振った男は、ふふふっと、例の不気味な笑いを、漏らすのだった。


「いくら広大な領地を占めていても、天に見放された北の大地では、もはや豊かな実を成すことはできぬ。我々の絶対的な立場を切り札にーー決して漏れてはならぬ〈自国の秘密〉を、否応なしに、王自身に吐き出させたわけだ」


バルダナの、不吉な笑みが深まるーー


「ミゲ殿、言葉が悪いですよ。それではまるで、わたくしたちが、一国の王に対して、礼儀というものに欠けるようではありませんか。わたくしはただ、テーダ様に、〈交渉〉を持ちかけてはいかがでしょうかとーーささやかなご提案を、させていただいたまでです」


「自国の秘密を売るかーーさもなければ、王自ら、国の息の根をとめるかーー。こちらはいたって簡単なことだ。〈ムー〉について教えなければ、〈マーン〉の買い取りをすべてやめると、ただ一言、伝えればいいのだからな」


細い目がーー冷酷な光を帯びる。


「ダダ様が自ら選択をしーー王自ら、〈ムー〉について、テーダ様にお教えしたまでです」


「あっぱれだ」


バルダナは大仰に、その身を深々とーー傾けてみせるのだった。

(ダダ様もまさか、ここまで事が進んでいこうとは、夢にも思ってみなかっただろう。兄上の後ろには、猛毒を孕んだ〈毒蜘蛛〉がーー潜んでいるとはな)


「これから、どうするつもりだ」


「どうするとはーー」


「茶番は終わりだ。我々は〈ガンダ国〉から、〈国の秘密〉を、まるごと奪ってみせたのだ。さすがのダダ様も、このまま黙っているばずはない。それにーーやつらは、どうする」


細い眉が、吊り上がるーー


「〈月の民〉のことですか」


「そうだ。やつらをみくびるのは、愚行かもしれぬぞ。酷い殺しがあったうえーー誇りを奪われて、やつらがこのまま、おとなしくしているはずもなかろう。〈シシン族〉がこの先、なにかしらの行動を起こすことは、もはやわかりきったことだ」


「そうですね……」


バルダナは、〈水晶の指輪〉が光る長い指で、先の尖った顎髭を、なでるのだった。


「ですがーーすでにわたくしが、〈ムー〉をこの世によみがえらせたことですし……こちらには、テーダ様の軍隊もおられる。そして、なにより心強い、最高司令長官ーーミゲ殿もーー。〈赤馬の伝説〉をもつ、〈シシン族〉とて、しょせんは力を持たぬ、古びた民たちです……」


バルダナは、胸の前でーー〈指輪〉のはまる、蜘蛛の足のような両手を、静かに握り合わせるーー


「力を持つものに、無闇に逆らえばーーどういう〈運命〉を辿るのかーー彼らに教える、良い機会ではありませんか……」



部屋の扉を閉めたミゲは、少し歩いて、長靴を止める。

(いけ好かないやつだ)

ミゲは内につぶやくと、衣に隠された首元へ、手をのばすーー引き出されたその手には、〈赤い首輪〉が、見えるのだった。

目の覚めるような、鮮やかな赤の紐が、複雑に編み込まれてできた〈首輪〉には、その先に一つーー白い数珠の玉のようなものが、光りついている。

これは、バルダナが、〈匂い除けの呪い〉をかけた、〈首輪〉だった。

この〈首輪〉が本物であればーーたとえ〈嗅覚の能力〉をもつ、〈キューア〉のメンバーであっても、身に着けている人物の匂いは、感じ取れないとーー呪術師は言っていた。

(果たして効果は、あったものか……)

耳の底にーー不愉快な声が、よみがえってくるのだったーー


……『ミゲ殿は、実に特徴的な匂いを、纏われておいでですよ。なにせ、テーダ様のお部屋には、あれだけ見事な〈銀香炉〉が、ございますからね』……


ミゲは、小さく鼻を鳴らすと、再び〈首輪〉を、衣の内へもどした。

(だかーー)

呪術の腕は、確かなものーー

〈月の民〉の聖域でーーあの光景を目の当たりにしてから、それまで決して、男のことを認めることはなかったミゲであっても、以降はその変化を、認めざるをえなくなった。


目のくらむような閃光ーー音ーー煙ーーとが、辺り一面を覆い包みーー洞窟中を揺らす鳴動の先ーー凄まじい衝撃が落ち轟き、ひらけた視界にーーえぐりとられた、〈氷塊〉のすがたがあった……。


ミゲは、止まっていた長靴を動かすーー

だがーーそれはすぐに、再び動きが止まった。

遠くからーー兵士の声が、聞こえてきたのだ。

兵士は動揺し、かなり焦っているらしく、同じ言葉を繰り返す声が、上擦っていた。


「ミゲ長官!ーー長官様はおられますか!ーーミゲ長官!……」


「私はここだ!」


真っすぐに伸びた廊下の先ーー一度通り過ぎて、消えた兵士のすがたが、慌てて身を引き返し、ミゲの待ち構える廊下の奥へーー大急ぎで向かってくる。

見るからに慌てた様子のその兵士は、〈ムー〉のいる森の建物にいた、あの若い中級兵士だった。

長いこと、城中を探して駆けまわったらしく、引き攣った顔が、流れた汗と共に赤く上気していた。

「騒がしい声を出して、一体何事だ」

若い兵士は、ミゲのもとまでやってくると、急いで息を整え、微かに震えた手で、例の敬礼を見せるのだった。

「申し訳ございません。火急を要する事で……」

「報告しろ」

「はい!……先ほど〈城〉に、〈ガンダ国〉からの早馬が到着いたしました。ダダ王より、大君主様へ、〈警文書〉が届きました」


短い、沈黙が流れたーー


「〈ムー〉のことだな」


ミゲの面がーー鋼の色を帯びた。

若い兵士が、「はい……」と、答える。

「このことは、まだ他に漏れてはいないだろうな」

「はい。〈ガンダ国〉からの急使は、〈マーン〉についての文を、持ってきたということになっております。〈ムー〉の件に携わっている、ごく限られた者たちのみ、把握しております。届いた〈警文書〉につきましても、今は厳重に保管されておりますので、ご安心ください」

「わかった。私が預かり、テーダ様にお渡しする。〈ガンダ国〉からの使いは、そのまま引き取らせるゆえ、そちらのことはおまえに任せた」

「はっ!」

若い兵士が、再び敬礼をみせ、廊下を引き返そうとしたとき、ミゲが声を放つーー

「ニバル、いかなるときも、情を己の皮に映すな。大きな声を出せば、自ら餌をまくと同じことだ。鍛錬し、身につけろ」

「はい!申し訳ございません……貴重なお言葉、肝に銘じます」

中級兵士は、最後にもう一度、深く頭を下げると、落ち着きを取りもどしたすがたに、足早に去っていくのだった。

ミゲは、長い廊下の先ーー兵士のすがたが見えなくなるまで、見据えていた。

そして、振り返るとーー背後にそっと佇む、紫紺色の扉を、静かに刺し睨むのだった。

(聞いているのはわかってる)

ミゲは、心の内に冷ややかにつぶやくと、さっと大きな身をひるがえし、止まっていた長靴を進めた。

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