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第四章•〈鷲〉と〈鳶〉㊁

二人が〈緑の壁〉の前まできたとき、天には陽が高く昇っていた。

「マーロ……どうしたの……」

こわい顔をした老人の顔を、ソルビが不安そうに見上げる。

やっと、目的地の入口である、巨大な壁のような、緑の茂みまで来たものの、マーロは足を止めたままーー一向に動こうとはしなかった。

瞬きもせずーー大きく開かれた瞳が、じっと……目の前にそびえ立つ、茂みのすがたを、強く捉えていた……。

マントの頭巾が払われた額を、びっしりと、玉のような汗が浮いていた……。ーーつーっと、汗が流れ落ち、真白な髭のなかへ、消えていく……。

灰色の瞳が、横の地面を見た。ーーそこには、折れた小枝が一本、落ちているのだった。

マーロは、根を生やしたように止まっていた足を動かし、折れた小枝を、拾い上げる。

それを、目の高さにかかげ、時間をかけ隅々までーー慎重に……調べていくのだった。

「……マーロ……」

いつもと明らかに違う、老人の様子に、不安げなソルビが、マントの裾をぎゅっと握った。

小枝に注がれていた視線が、足下にいる、幼子を見る。

マーロは、小枝を静かに下ろすと、そのままもとあった場所へ、もどすのだった。

強張った顔を、無理にもやわらげ、見上げている幼子の肩に、そっと手をのせる。

「おまえさんは、なにも心配しなくていい。その代わり、私の後ろから、決して離れてはいけないよ」

ソルビが、きゅっと唇を結んで、こくりと頷くと、マーロは青ざめた顔に、一瞬笑みを浮かべ、再びさっと、表情を引き締めた。

二人は、いつものように、巨大に広がる〈緑の壁〉を、ごく僅かな目印である、周りの葉たちと一枚だけ形の違う葉がある場所ーー先ほどいたところから、少し離れた横まで移動するーー

マーロを先頭に、厚く生い茂る緑のなかへーー入っていくのだった。

二人が入っていった、目印のあった場所はーー外からはわからず、びっしりと複雑に入り組んだ枝や葉が、唯一、細くすき間をあけていた。

まるで奥へとーー導くかのようにーーそれは絶妙にあいたすき間が続き、通る人間を、無理なく傷つけずに、進ませるのだった。

マーロは、後ろにソルビを連れて、蒼蒼とした茂みのなかを、慣れた足取りで進んでいくーー。

そして、ついに、壁の向こう側へと、身体が抜け出るのだった。


「……わぁ!」


ソルビが、小さな歓声をあげる。

だがすぐに、マーロがさっと、指を口元にあてたため、ソルビは慌てて、小さな手でぎゅっと口を押さえた。

何度来てみても、ソルビにとってはそれぐらい、この美しい場所が、特別だったのだ。

とくに、〈緑の壁〉を抜けてすぐ、突然目の前に広がる、息をのむような景色のなかーーその先に佇む、大きな〈柳の木〉を見ると、いつも黒い瞳を輝かせていた。

マーロの視線は、あの折れた小枝が落ちていた、先にあたる場所を、凝視していた……。

そこには、もはや疑いの余地なく、はっきりとーー地面の土の上に、痕跡が残っているのだった。

(ここへ出て……手足をついたわけか……)

マーロの心臓は、激しく打っていたがーーみぞおちにかけての冷たい強張りが、すうっと引いていくのだった。

それは、〈緑の壁〉の異変に気づいた瞬間ーー心の奥底に、蠢いた人影がーー薄く影をひそめたからだ……。

(やつにしては……明らかに手が小さい……。痕跡を残すはずもない……)

だが……

(油断するな……)

ピンと張っていた糸が、僅かに緩んだ刹那ーー鋭い警告の声が、身の内に響くーー。

マーロは一度、深く呼吸をすると、静かに膝を折り、傍らにいるソルビの瞳を、真っすぐに見つめた。

不安を帯びた黒い瞳が、真っすぐに見つめ返すーー。

「ソルビ、ここで待っていなさい。私がいいと言うまで、決して、ここを動いてはいけないよ。なにかあったら、大きな声で呼ぶこと。そしてもし、強い風が吹いてきて、灰色の羽が見えたら、すぐに壁を抜けて、走れるところまで走りなさい」

「マーロは……」

「私は大丈夫だから、すぐに走るんだ。隠れる場所を見つけて、そこでじっとしていなさい。必ず迎えにいく。……約束できるね」

ソルビは、襲う不安と緊張に、黒い瞳を潤ませて、それでもぎゅっと、唇を引き結び、大きく頷いた。

マーロの手が伸び、小さな頭に、ぽんとおかれる。

「……いい子だ」

そして、立ち上がる。

灰色の瞳の先にはーー壮麗な〈柳の木〉が、美しく風にそよいでいた……。


ひんやりとした〈洞窟〉へ入ると、マーロは自身の鼓動を、強く感じた。

高く昇った陽のおかげで、洞窟内は、いつもより少し、明るいぐらいだった。

マーロは立ち止まると、見慣れたはずの光景をーー慎重に……見渡していく……。

いつなんどき、ことが起ころうとも、すぐさま動けるように、全身の神経をーー研ぎ澄ませていった……。

微塵の音も立てずに進んでいきーー〈洞窟〉のなかほどまできたときーーマーロの双眸が、大きく開かれる。

その場所は、〈洞窟〉にいるあいだ、食事をしたり、眠ったりとーーほとんどの時間を、過ごす場所だった。

(私としたことが……)

マーロは、深く皺の寄った眉間に、手をあてる。

〈洞窟〉は、〈柳の木〉ーーそして、〈緑の壁〉に守られているものの、マーロはこれまでも、万が一のときのため、決して用心を怠ることなく、痕跡を残さぬよう、徹底してきた。

しかし、今ーー視線の先に映る、岩の地面には、まぎれもなく、細い小枝でつくられた、三角屋根の家の一部が、残っていた。

(急ぐあまり、ソルビの遊びの始末を、見落とすとは……)

老いという宿命にーー言い知れぬ焦りが、胸に湧き上がってきた刹那ーー心臓が、ドグンっ……と打つ……

ここへ、何者かが来たのならば……すでに、見られてしまったのではないか……

痺れた脳裏へーー最も恐れていたことが、よぎるのだった……。

冷たい汗がどっと噴き出し、こめかみを、伝っていく……。

マーロは、自身を落ち着けるように、深く呼吸をすると、小枝の残る地面へ向けて、伸ばした右手を、静かに振った。ーーすると、地面にあった小枝たちは、音もなく、一瞬のうちーーぱっと消え失せるのだった。

マーロは、重大な失敗を片付けると、再び神経を張り詰めて……残る〈洞窟〉の奥を、見据えた……

全身の肌ーーごく短い髪の先までーーピリピリと……痺れていた……。


マーロの目の前にはーー巨大な〈岩の壁〉が、そびえていた。

黒々とした岩肌ーー厳しい立ちすがたーーそれはあたかも、この〈洞窟〉の終点を、告げているような光景であった。

しかし、マーロは、一度立ち止まるだけで、踵を返すことなく、さらに足を進めていくーー。

そうして、〈岩の壁〉へ近づいていくとーー驚いたことに、そこは、まったくの行き止まりなどではなかった。

巨大な一枚岩の後ろには、人が通れる入口がありーーぽっかりとあいたその口を、〈岩の壁〉が、巧みに隠していたのだった。

マーロの心臓は、〈洞窟〉に入ってから、一番の強さで打っていた……。

神経をーー最大限に研ぎ澄ませ……滑るように、〈岩の壁〉の後ろへ入っていく……

足を止めた、マーロの全身からーーさーっと……緊張が抜けていった。

長く、深いため息の先ーーそこは、入口のすがたからは、とても想像できぬ光景が、広がっていたーー


十分な広さがある、まるい空間の部屋ーー壁や、天井にいたるまで、すべてが岩でできていた。

広い部屋には、表面がなめらかに磨かれた、岩のベンチがぐるりと置かれ、円状にーーいくつもの段となって、岩のベンチたちは、真ん中に沈む、部屋の中心を囲んでいた。


マーロの視線がーーその中心へと、向けられる……


そこにはーー息をのむ神秘的なーー〈花壇〉のすがたがあった。


小さな岩で、まるく縁取られた〈花壇〉には、たくさんの〈花〉たちが、輝くばかりに、咲き誇っていた。

目を見張るような、鮮やかな青ーー〈瑠璃色〉に光り輝く、美しい〈花〉だった。

〈青い花〉のすぐ下には、しなやかな緑の〈葉〉のすがたが、のぞいている。

五枚のーー青い花弁たちは、ぽっと光を宿す、中心の黄の灯火を、優しく包み込むように、囲み飾っているのだった。

静謐な空気が満ちた部屋のなかーー高い天井から、真っすぐに差しのびた陽光が、〈花壇〉に咲き乱れた〈花〉たちのすがたを、煌々とーーまるで、青い宝石を散りばめたように、輝かせていた……


マーロは、ゆっくり足を動かすと、近くにあった岩のベンチへ、腰を下ろした。

張り詰めていた緊張が、一気に抜け去ったそのすがたは、色濃い疲労が滲み、幾分か、年老いて見えるのだった。

暗い眼差しが見つめるのは、〈花壇〉のなかにぽっかりとあいた、不自然な穴ーー

一面に咲いた〈花〉たちが、なぜかそこだけ、あたかも根本からきれいに抜き取られたかのように、下にある土のすがたが、見えていた。

穴の大きさからして、それは一本や二本などではなくーーまとまった数であることが、わかるのだった。

マーロは、深いため息をつくと、厚いまぶたを、ゆっくりと閉じる……

静まり返った部屋のなかーー遠い記憶から、賑やかな音が、よみがえってくるのだった……

まぶたの暗闇にーー鮮やかな光景がーー広がっていくーーー


ーー岩の部屋には、たくさんの人物たちがいた


みな、輝くような笑顔を浮かべた、若者たちのすがたーー

彼らは、円形に並んだ、岩のベンチに腰かけ、〈ナリアの花〉が咲き乱れた、美しい〈花壇〉を囲んでいるーー

内から、溢れるような活力ーー生気に満ちた強い光を、その瞳に宿して、熱心に語り合っていたーー

若者たちが一斉にーー同じ先へ、顔を向けるーー

ぱっと弾けるような笑みが広がり、一人ひとりの眼差しに、陽だまりのような尊敬が映ったーー

マーロが横を見るとーーまだあどけなさの残る、少年、少女たちのすがたもあったーー

ソランとロナはーーこちらに顔を向け、生き生きとした表情を、見せていた……


マーロのまぶたがーーゆっくりと……開かれる……

細く、光が差し込む部屋のなかには、もうかつての、音もーー人もーー存在してはいなかった……。

悲涼な目がーー〈花壇〉からーー部屋の隅へと、向けられる……

そこには一見、ぞっとするような光景が、見えるのだった。

部屋の隅に、整然と並べられた、いくつもの物体ーー

よく見るとそれらは、細部まで精緻にーー人のすがたを、していた……

静かな光沢を放つ、〈鉛の屍〉はーーどれもみな、その顔に穏やかな表情を浮かべ、まるで……長い眠りについたかのように……なんとも安らかに、横たわっていた……

同じ質素な衣を纏う、〈鉛の屍〉の足下には、それぞれ一つずつーー同じものが、添えられている。

本来の色を失いーー茶色く、しなびてしまっていたが、それはたしかに、〈青い花〉のすがたのない、〈ナリアの葉〉であった。

暗い影を孕んだ視線がーー端から二番目に横たわる、〈鉛の屍〉を見つめる……

その〈鉛の屍〉のそばには、〈真白の壺〉が、寄り添うように、置かれていた。

見つめる灰色の瞳に、涙が光る……

(……あの子は、まさかこんなにも近くに……二人が……そばにいるとは……思ってもいないだろう……)

膝の上に、きつく握られた拳がーー小刻みに震える……。

マーロは、ソルビと共に、もう何度となく、この〈洞窟〉へ来て過ごしていたが、ソルビは今まで一度も、この部屋へ入ったことはなかった。ーーそれどころか、ソルビは、この部屋の存在自体を、まだ知らない……。

マーロは、深いしじまに包まれた部屋のなかをーーゆっくりと……見渡した……


なにもかも……すべてが……変わってしまった………


大切なものが、次々と消えていきーー残ったのは、やり場のない……思いだけ……

刹那ーー悲痛に歪んだマーロの顔に、激しい怒りが噴き現れた……


「あの男さえっ……!」


戦慄く声が、岩にこだますーー

固く封じていた、身を蝕む赤黒い怒りに、心臓がーードンっドンっドンっ……と、凄まじい音を立てて、全身の骨に打ち響く……

鋭く、刺すように走った痛みに、マーロは胸を鷲掴んだ。

小さく縮まった身が、苦しく……喘ぐように……上下する……

掠れた呼吸の音だけがーー静かな部屋のなかに、聞こえていた……


…………マーロ…………


今にも遠くなっていくーー意識のなかーー微かに届いた、声ーー

マーロは、冷たい岩の床へ、その身が倒れる寸前にーー苦しかった呼吸が、ふっと……楽になるのを感じた……。

乱れた呼吸を整え、ゆっくり身を起こすと、顔中にびっしりと浮いた汗を、掌で拭う。

長く吐き出した息と共に、全身の強張りが、抜けていくのだった……。

〈洞窟〉の外で、言いつけ通りに待っているソルビが、なかなかもどらないマーロのすがたに、不安と心細さに、耐えられなくなったのだろう、精一杯に叫んだ声ーー

(……あの子のことだ……一歩も動かず、待っているな……)

深い皺の刻まれた、土気色の顔に、平らかな微笑が、浮かぶのだった。

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