【コミカライズ】お飾り妻は、自分の機嫌を取っている場合ではない
いつの頃からか「自分の機嫌は自分でとる」という言葉を、耳にするようになった。
曰く、不機嫌もあらわに、誰かによしよししてもらおうとしている者は、未熟で幼稚で鬱陶しい、付き合いづらい人間だというのである。
自立した大人は、自分の機嫌は自分で取る。
シンシアはそれを聞いて、もっともだと思ったものだ。
嫌なことがあったからといって、ふくれっ面でむすっとしていて、誰かに「何かあったの?」と声をかけてもらおうだなんて、子どもじゃないんだから。
言いたいことがあるなら、言うべき。
言えないことであったり、言わないほうが良い相手に関することなら、自分にできることはないと割り切って、いっそ面倒事そのものを忘れるに限る。
そして、綺麗なものや楽しいものを見て、美味しいものを食べて、笑ったり騒いだりして気を紛らわせるのだ。
人前に出るときは笑顔で。耳目のあるところでゴシップになるような愚痴を口にすることはなく。
(そうよ、決して誰かから「どうしたの?」と聞かれるような顔をしていてはいけない。うっかり、口をすべらせてもいけない。婚約者が他の女性と親しくしているとか、どう見ても不適切な接触を持っているだなんて、それくらいのことで「表情をくもらせている」場合じゃないんだわ!)
* * *
シンシアは第二王女の立場で、婚約者はエルネスト・メリチアーニ公爵。兄王子の側近で、子どもの頃からの学友でもある。幼少時から一貫して、成績は極めて優秀とのこと。卓越した剣の使い手であることから、護衛も兼任しているためいつも兄と連れ立っており、シンシアが物心ついた頃から顔を合わせる機会も多かった。年齢は五歳離れているが、シンシアが十歳のときに婚約が決まった。
エルネストの長く伸ばした銀色の髪は月光を凝らせたように美しく、アイスブルーの瞳はきらきらといつも煌めいている。秀麗な顔立ちは女性的でもあり、一見すると優男風なのに、剣を振るうと誰も寄せ付けないほどに強い。
運動能力そのものが非常に高いらしく、王家主催の茶会の席で、きまぐれな女性がバルコニーから庭にいる男性陣に向けて落とした帽子を、地面に落ちる前に馬で走り込んで受け止めることなど、容易くやり遂げてしまう。
拍手喝采を浴びながら、エルネストは目元と口元だけで微笑み、従者に帽子を渡して持ち主まで届けさせていた。
その日、その場面を、シンシアもバルコニーの端のカーテンの陰から見ていた。
淑女たちが、うっとりとして婚約者へ視線を向けるのを目の当たりにして、言葉を失っていた。女性たちは続けざまに「私はショールを」「私は扇子を落としてみるわ」「拾っていただけるかしら?」「脈ありってことよね、うふふ」と頬を染めて言い合っている。
(それって、どういうこと?)
シンシアはこのとき十六歳になったばかりで、同年代以外も多数出席して「大人の会話が飛び交う」茶会に出席するのは、初めてだった。
最近、エルネストの父が病気で隠居することになり、若くして爵位を継いだことで、バタバタと具体的に結婚の話が出始めたところであったが、婚約者とはいえ彼とは節度ある清らかな関係を保っている。二人きりで会ったこともないし、唇にキスをしたこともない。いつも距離があり、礼儀正しく会話をするだけで、個人的に踏み込んだ内容を話した覚えもない。
それを、シンシアは結婚前の淑女として当然のことと考えていた。だが、どうも世の貴婦人たちからは失笑のタネにされているらしいと、会話に耳を傾けるうちに唐突に気づいてしまった。
二十一歳の男盛りのエルネスト様に、お相手が幼女ではお可哀想、という聞えよがしの陰口。
はじめは、なんの話をされているのか、よくわからなかったのだ。
やがて、「相手が五歳も年下の王女でさえなければ、とうに結婚して子どもにも恵まれていたものを」という意味だと理解した。
そして「だから、王女の目の届かないところで女性の間を渡り歩き、情熱の限りに振る舞っているのでしょう」「私がお慰めしてあげたいわ」「あら、あなたはこの間彼に声かけられたって言っていたじゃない」「帽子を受け取ってもらえたら、彼が誘いに乗るという意味なのよ」と、彼女たちの話は白熱する。
(エルネスト様の婚約者がここにいるのに、お構いなしだなんて。それ、もう私に聞かせるために言ってますよね?)
かくも「噂話」とは、残酷なものなのか。
シンシアは「王女」で「婚約者」であり、誰に恥じる身でもない。
ここで彼女たちを怒鳴りつけることができれば、また違っただろう。
しかし、ことはそう単純ではないのだ。
まず、噂話に興じているのは、シンシアより年嵩で見るからに経験豊富、一人寝が寂しい公爵様を「お慰めあそばす」などわけがない美女熟女揃いなのである。
加えて、いかに少々品のない話題とはいえ彼女たちはこの国の淑女たるものの代表格、いわゆるやんごとない家柄の奥様やご令嬢方なのだった。
この場における最年少、着飾っても「貧相な体つき」の小娘ごときが、王家の血筋をたてにしたくらいで従わせられる相手ではないのである。
これが、反逆の兆候だとか、クーデターの算段だというのなら、いくらでも打つ手はあるのだ。
そこまでの重大事ではなく、ただ美形の公爵様を褒めそやしたついでに婚約者をオーバーキルしてしまっただけの余興なので、シンシアとしても父や兄に泣きつくわけにもいかない。
国の一大事ならともかく、この程度のことすら自分で対処できないようでは、かえって「情けない」と失望されかねない。
シンシアが黙り込んでいる最中、どっと、女性たちの間で場が震えるほどの笑いが巻き起こる。何か、大ウケの発言が飛び出したもようだ。
帰りたい、立ち去りたい、ベッドにもぐりこんで寝てしまいたい。エルネストがそんなひとだったなんて。もういや。この最悪の一日をさっさと終えて忘れてしまって、明日からまた何事もなかったように日々をつつがなく生きていきたい……。
シンシアは、息を詰めたまま、ぼんやりと逃げ出すことばかり考えていた。
彼女たちが羨望のまなざしを向ける美青年、まさにそのひとが婚約者で、結婚の見通しもたち、この先の人生は希望に満ち溢れているはずなのに、その彼の存在によっていま現在追い詰められていて、楽しい気分になりようもないとは。何事も、うまくいかないものである。
シンシアが聞いているのをよくわかった上で、女性たちは卑猥な話題で盛り上がる。
「結婚したところで、お相手があのように初心でお可愛らしい方では、エルネスト様には物足りないことでしょう」
「あら、男にとって妻なんてお飾りなのではなくて? 結婚が形ばかりのものだなんて、誰だって知っていることでしょう。恋愛は結婚してからの方が、自由で楽しいわ」
「エルネスト様は、結婚前から楽しんでいるみたいですけれど、仕方ないわね。結婚前の時間が、長すぎるんですもの……」
なぜ、彼女たちはメリチアーニ公爵を名前で呼ぶのか。親しみを覚えているにしても、最低限の礼儀くらいはわきまえるべきではないか。
よほど言おうとしたが、シンシアは結局その言葉を呑み込んだ。
無理が通れば道理が引っ込むとはよく言ったもので、彼女たちの態度は不敬であるが、「それ、不敬ですよね!」とシンシアが騒いだところで、鼻で笑われて目の届かないところで話を続けられるだけだろう。
嫌がらせが地に潜っただけのことを「解決した」とは言わない。
結局、打つ手は何もないのだ……。
「姫様、お飲み物はいかがでしょう」
顔色を失っていたであろうシンシアに、侍女が控えめに声をかけてくる。頬の筋肉がこわばって、笑える心境ではなかったシンシアであったが、なんとか微笑んでみせた。
「ありがとう。いまはいいわ」
「では、何か召し上がっては……」
相手がこれ以上ないくらい「姫様」を気遣う表情をしているのを目にして、シンシアは自分が「ご機嫌うかがいをされている」ことに気づいた。
(こ、これは……! 「大勢の前で、婚約者の不貞談義を聞かされ、お飾り妻になるだけと笑われていますが、姫様はそれで大丈夫でしょうか」ということ……!? 私がしょぼくれた顔をしていたばかりに……!)
ふと周りを見ると、給仕にあたっている者たちが皆一様に、「姫様、お加減はいかがでしょうか」という顔をしてちらちらと視線を向けてきていた。
何しろ、場が王宮であるために、来賓である御婦人・ご令嬢方以外、その場にいる宮仕えの者たちは心情的にシンシア寄りなのであろう、と察せられた。
現在王妃は席を外しており、ご婦人方をたしなめることができる身分の者こそいないが、それだけに皆「うちの姫様になんてことを。いざとなったら一発ぶちかましてやりますよ」で一致団結している気配をひしひしと感じる。
いまにも、誰かが手をすべらせたふりをして飲み物を来賓にひっかけたり、テーブルをひっくり返してお茶会そのものを終了させかねない。
いけない、私が冴えない表情をしていたからだわ、とシンシアは自分の不甲斐なさに今日一番心を痛めた。
(周りに気を遣わせている場合じゃないわ……! 「自分の機嫌は自分で取る!」「相手を変えようとは思わない、自分が変わればいい!」それが大人の女! 淑女の品格、嗜みというものですわ……!)
慌てず騒がず。
処世術や、人付き合いの心得など、これまで心に響いた言葉をいくつも思い出して、自分に言い聞かせる。
(たとえあの方々が言うように、婚約者が不貞を働いているのだとしても、大人の遊びなのだから口を出すのはきっと野暮なのですわ)
(小娘の分際で、婚約者のひとり寝をおなぐさめすることもできないのに、行動を抑制しようだなんて思い上がりもいいところなのです)
(そんなことでいちいち顔色を失って、周りによしよしされている場合ではないのですわ)
(自分の機嫌は自分で取る、ですよね?)
あら?
まずは自分が変わらねばと思い立った。自分の機嫌は自分で取らねばいけないとも思った。
それらを合わせるとつまり、「他人と関わりをもたずに、自分ひとりで全部抱え込め」になるのではないか? と、シンシアは鋭く気づいた。
抱え込んだときに、自分は変わるかもしれない。それはおそらく、今より悪い方へ。
「姫様、お化粧直しはいかがですか? 少し外の空気を吸ってきては」
侍女に声をかけられ、離れた場所にいる護衛の女性兵士に「いつでも場をぶち壊す準備はできていますよ?」という視線を向けられて、シンシアは目だけで合図を送った。
――結構です。自分でどうにかします。誰も手を出さないように。
このまま、周りに気を遣わせているわけにはいかない。
ここで黙っているわけにはいかないと、一歩踏み出した。
「マリナンジェーニ伯爵夫人、よろしいですか? 私の婚約者である、メリチアーニ公爵があなたに熱烈にアプローチをし、ベッドを共にしたという日時と状況について、詳しく教えて頂けますでしょうか?」
* * *
バルコニーの下では、男性たちが三々五々、近くにいた者や親しい者同士で集まって、グラスを手に会話を交わしていた。
第一王子フレッドは、話の最中に何度もバルコニーを見上げるエルネストに対し「今日も盗み見が熱いね!」と声をかける。
エルネストは、ごく真面目な顔で「絶対見たいから、当然だ」と主張する。
「私がシンシア様を拝見できる機会がどれだけ少ないか、殿下も知っているではないですか。六年も婚約状態で、結婚も決まっているのに、『わざとか?』ってくらい横槍を入れている筆頭が殿下ですよね? そろそろ少しくらい二人の時間を作って頂いても良いのではないかと愚考しますが? 愚考って言ってますけどこれただの言葉の綾ですよ、むしろ殿下も愚考したらわかるだろ、くらいの意味ですよ」
「不敬すぎる……」
言い返しつつ、フレッドは早くも腹を抱えて笑っている。エルネストはそれをむすっと睨みつけてから、バルコニーを見上げて、ぱっとアイスブールの瞳を輝かせる。
「あ! いまちらっとご尊顔が! ああ……視力が足りない。私の目がもう少し良ければ、姫様の柔らかな頬を伝うおくれ毛の本数もわかっただろうに」
「怖い。頬がやわらかとか、お前の妄想と願望だろ。というか、見えないのは視力の問題じゃなくて角度じゃないか。シンシアの位置取りはどうなってるんだ。初回だからって、あんなに遠慮しなくてもいいだろうに、なんで隅っこにいるんだ。隅っこ好きか。隅っこ暮らしか」
「そうだな……カーテンの陰で、ちょうどこちらからよく見えない。私はもう、あのカーテンになりたい。姫の触れたバルコニーの手すりでもいい。今日は、人間でいるのが辛い……」
「怖い。風になって姫の元へ吹くとかいい出すのはやめろよ」
シンシアをひとめ見たくて歯噛みして地団駄しているエルネストを、フレッドは引き気味に見守る。
愚直だとか一途だとか、そんな言葉では足りないほど、エルネストは婚約者であるシンシアだけをひたむきに思っているのである。
あまりにも大切しているために、シンシアに対して絶対に「羽目を外す」だとか「人目を忍んで婚前交渉の真似事をする」といったことがない。
フレッドには理解しがたいことだが、エルネストはどうもシンシアの姿がほんの少し見えたりするだけで元気になれるらしく、会話などできた日には「光栄の極み」と次に会えるまで一ヶ月でも言い続け、シンシア欠乏症に陥ると「そろそろ姫は私に謁見したくならないのだろうか?」とフレッドをせっついてくる。
「陛下にお目にかかるときより、謁見の真剣度がすごいよな……」
「比べられるものではない。不敬というものだ」
すぐさま、エルネストから反論されたが、フレッドとしては曰く言い難いものがあった。「参考までに、陛下と姫の真剣度はどっちが上?」と確かめようか迷ったが、言わせてはならない言葉が飛び出てくると後々大変なので、忘れることにした。
「お前もな……、人妻やらご令嬢やらに大人気で、視線を向けただけで女性がバタバタ倒れる美丈夫だってのに、浮いた噂のひとつもなくてな」
「なぜ彼女たちは倒れるのか、理解に苦しむ。俺は目から殺人光線でも出るのか? こちらが殺す気もないのに、勝手に死なれても迷惑でしかない」
「そこでシンシアだ。シンシアも年頃の娘なわけだ、そろそろお前の眼光で倒れるんじゃないか?」
「わかった、私は自分の目を潰す」
いまにも剣を抜きそうなエルネストの手に、フレッドは「やめろ」手を重ねた。本当に、目を潰しかねないのが、エルネストという男なのである。
「シンシアと、あれほど接触が少ないのに、どうしてそこまで好きでいられるのか」
「天使を慕うのに、直接お目にかかる回数や時間は重要か? いや、重要だな……もっと会いたい。あの方は、聡明でいていじらしいところがとてつもなく可愛い。最近、姫様に会ったときに言われたんだ。『自分の機嫌を自分で取れるのって、素敵なことですよね!』って。できればその場に私も立ち会わせてほしいと、どれほど思ったことか。姫が自分で自分の機嫌を取ってるところ、目に焼き付けて永遠に覚えておきたい。絶対に、可愛い」
「うん……。妹の婚約者が、妹を大好きだという平和な話を聞いているだけなのに、悪寒がするのはどうしてだろうな……」
フレッドは、わざとらしく震えながら、自分の腕を掻き抱く。
そのとき、頭上のバルコニーから女性の悲鳴が響いた。
* * *
「その話は、具体性に欠けますね。先程あなたは『あれは冷たい雨の日だったわ』って言いました。雨の日にずぶ濡れになったのなら、親切なひとの腕の中で暖を取るのではなく、急いで馬車に飛び乗ってしかるべき場所へ帰り、湯浴みをして着替えれば良いと思うのです。どうして親切な男性の腕の中に飛び込むんですか?」
「そ、それは公爵閣下が、私にお優しくしてくださったからですわ」
「相手が公爵閣下そのひとだとわかっていて、親切心から声をかけてくださったとわかっているのなら、腕に飛び込んで相手もずぶ濡れにするのは判断として間違えていませんか? 他人の手を煩わせない、迷惑をかけないように振る舞うのが淑女というものではないですか?」
エルネスト・メリチアーニ公爵と「熱い一夜を過ごした」とか「お情けを受けた」とほのめかす女性たちに対し、シンシアは「具体的にどのように」と生真面目な顔で質問を続けていた。
少しでも最初の発言と食い違うようものなら、首を傾げて質問攻めにする。
「先ほどとは話が違うようですか?」「記憶違いですか?」「嘘を言ってくださいとはお願いしていないんです、ありのままの証言をお願いしています」「私、婚約者なのです。事実関係を明らかにする必要があるのです」「詳細を覚えていられないような一件を『忘れられない出来事』とは言いませんよね?」
火中に飛び込んできた小娘を、ここぞとばかりに返り討ちにしようと手ぐすねひいていた淑女たちが、みるも無惨に追い詰められて黙らされていく。
最初の二、三人がシンシアによって討ち取られた時点で、さあっと攻勢がやんだ。あとは皆、こっちを見ないでほしいとばかりに顔をそむけて、それとなく従者や侍女に目配せをして帰りの算段をはじめる。
その退路をふさいだのは、所用で一時退出していて、ちょうどそのとき戻ってきた王妃である。
「まあ、盛り上がってるわね♥ まだお開きには早いわよ。王宮のパティシエの新作、もっとたくさん召し上がっていってくださいな」
そのひとことで、全員をその場に足止めし「お茶は私が淹れるわ。美味しいお茶を淹れるのも、主催の役目ですもの~。私のお茶を飲めないひと、いる? どんな急用ができたのか、聞いていい?」と完全に相手の言い分を封殺した。
すかさず、シンシアが「お母様、それは『パワハラ』ではないですか? 私のお茶が飲めないのかなんて言われても、皆様困りますよ?」と眉をひそめて口を挟んだが、場は静まり返るばかりであった。
最初の乱痴気騒ぎに対し、高みの見物を決め込んでいた年配の御婦人方は、シンシアに好意的な目を向けて「見事な初陣」と言い合う。聞き止めた王妃が「私の娘ですもの」と誇らしげに言った。
「もう嫌ですわ……。王家の後ろ盾があるからって、やりたい放題。こんなわがまま姫、見たことがないわ」
シンシアにやりこめられたひとり、マリナンジェーニ伯爵夫人が大仰に泣き崩れながら悲しげに言ったが、答える者はいない。むしろそれまで引き気味でいたご令嬢たちが「なぜ王宮に招かれておいて、王家に喧嘩を売ろうと思ったのでしょう」「王妃様がいない間なら、どうにでもなると思ったのでは」「公爵閣下も謎の多い方ですから、姫様へ喧嘩を売ったわけではなく、女のメンツをかけたマウント合戦で引くに引けなくなったのでは」ということを小声で上品に言い合う。
王妃が笑顔で「お茶入りましたわよ~♥」と全員に声をかけた。「はーい」と会場中で返事があり、ぞろぞろと令嬢たちが移動する。
泣き崩れたまま、誰にも声をかけられずにしらけた空気に取り残されたマリナンジェーニ伯爵夫人は、引っ込みがつかなくなったのか、突然悲鳴を上げた。
「あらやだ、ねずみが! ねずみがいましたわ! 王宮なのに! 茶会の場をねずみが横切るなんて!」
誰よりも素早く動いたのは、シンシアであった。
「どこですか? 見えませんでした。本当にねずみでしたか? 色は? 大きさは?」
伯爵夫人を侵入者からかばうかのように、その前に立ち、しゃがみこんで辺りを探り始める。伯爵夫人は、顔を歪めてシンシアの臀部を手で突き飛ばした。
シンシアは体勢を崩して転びかけたが、床に手をつく前に、バルコニー周りの壁を駆け上がり、会場へと走り込んできたエルネストが腕を差し伸べて抱きとめていた。
「姫様、どこかぶつけませんでしたか?」
「大丈夫です。それよりねずみを見ませんでしたか? 侵入者です」
「それが姫様をお転び遊ばせた原因であるならば、捕らえて首を落とします」
真面目くさった顔で言い切ったエルネストを、シンシアはその腕の中から見上げる。
(結局、不貞の証拠は何も出てきませんでした。今日初めて出会った女性の言い分より、私は六年間婚約者であったエルネスト様を信じます)
ただ、この機会にほんの少しくらい本音を確かめておこうかしら? と思いながら、エルネストの目を見つめて尋ねた。
「私との結婚は、あなたにとっての幸せになりますか?」
エルネストは、シンシアの手を取り、手の甲や指に口付けてから、たとえようもない優しい顔をし、甘い声で囁いた。
「婚約者というだけで、幸せです。結婚となったら、幸せすぎて倒れてしまうかもしれません。気を強く持ってその日を迎えたいと思います」
二人の周囲では、それを目撃した女性たちが「圧倒的美……」「推し尊い」と言いながら倒れていた。マリナンジェーニ伯爵夫人は、ハンカチを噛んで涙を流していた。
(結婚したら、幸せで倒れてしまうの? 死因? 幸せ?)
少しわかりにくい言い回しだったが、喜んでくれているという意味で良いのだろうか? とシンシアは考える。
死屍累々の光景の中、寄り添ったまま相手だけをその目に映して見つめ合う二人に対し、王妃がひとこと「結婚しても、その先の人生続くわよ」と声をかける。
エルネストとは違い、壁を駆け上がるような芸当のできない常人のフレッドは、護衛兵をひきつれてその頃ようやく会場入りをしていた。王妃は、現れた面々の数を数えると、満面の笑みを浮かべて「せっかくだから、このまま皆さんに、若い二人を肴に私のお茶を飲んでもらいましょう」と侍女にティーカップの追加を申し付けた。
エル「さ、触ってしまった! 触ってしまった! もう一生手を洗えない……! 今晩は眠れない。ときめきで死ぬ」
フレ「いや、不潔だから洗おうな。あと、寝ろ。ときめきで死ぬな、シンシアを死因にする気か」
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