にほんご なーし
2075年。
英語を母国語並に話せる日本人が劇的に増えた。
国が教育方針を変えた訳ではない。人々が自ら英語に興味を持ち、学ぶようになったのだ。
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そのきっかけを作ったのは、中国人である陳先生が経営する英会話スクール〝にほんごなーし〟だ。
陳先生は英語圏で生まれ育った訳でもなく留学経験がある訳でもない。生粋の中国生まれ中国育ちだ。
十年前、陳先生は日本に旅行に来て、いたく気に入り移住したのだった。そこから日本語を独学し、今では日本語をペラペラ喋ることができる。
トリリンガルになろうと英語もマスターしようとしたらしのだが、性に合わないのか日本語のように上達しなかったらしい。
だから自分と同じレベルの英語力を持つ日本人生徒を集めて、教えるというより一緒に学ぶ教室を作ったのだった。
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〝にほんごなーし〟は陳先生の自宅マンションの一室が教室になっている。
【NO JAPANESE】
というのが教室の唯一のルールだ。レッスン中は何があっても英語のみ。レッスンはテキストを使わない。使うのは陳先生手作りのカードだ。それには〝犬〟とか〝めがね〟とか〝春〟とかありとあらゆる単語が書かれている。
生徒は順番が来たらそのカードを一枚引き、他の生徒には見せないようにして、単語の説明をする。しかし、〝犬〟なら〝dog〟と英単語で表現してはならない。〝animal〟〝bow wow〟といったように、〝犬〟を説明するためにいくつかのヒントになるような単語もしくは擬音語、文章しか話してはならない。
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ちょっとレッスンを覗いてみよう。
今、カードを握りしめているのは、四十代女性。ここに通い始めて二ヶ月。カードには〝みたらし団子〟とある。「ムズっ!」と女性は笑いながらのけぞった後「あー」「えー」と言いながら単語を考え始めた。
「sweets」「soy sauce」「rice」
それを聞いて周りの生徒は、「スイーツ?」「ライス?」「スイーツなのに醤油かかってんの?」「何だろ」と首を捻りながら考えつつも、その表情は生き生きしている。
そして思いついたように「磯辺餅!」などと答えを言うが、なかなか当たらない。もどかしいが、それが楽しい。
レッスンに通うのが長くなった生徒の中には、単語を文章で説明しようとする生徒もいる。五十代男性の手元にあるのは〝炊飯器〟というカード。
「This is consumer electronics.」
「It's makes freshly cooked rice.」
といった感じ。そうすると皆、なんとなーく意味合いが伝わるので、「あ、炊飯器!」といとも簡単に答えを当てて盛り上げる。
もちろん陳先生も参加している。陳先生は四十代女性と同じく単語で説明するが、その単語量は半端ない。なんでも単語帳で勉強しているらしい。が、なかなか文章で話すことが難しいようだ。
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生徒の中にはこの〝にほんごなーし〟レッスンがきっかけとなり、英語に興味を持ち再び勉強を始める生徒がたくさんいる。自分から興味を持ち、始めたことなら大人であっても、ぐんぐん上達するのだ。
ターゲット単語帳をボロボロになるまで読み込む者。さらに高みを目指してネィティブ講師がいる英会話スクールに通うもの。TOEICにチャレンジする者。
そう。ここからあまた、英語を極めたいと羽ばたいた生徒がいる。今日はそのあまたいる元、生徒の一人が陳先生宅を訪問することになっていた。
約束の午後三時。インターフォンが鳴る。陳先生がドアを開けると、そこには三十代後半くらいの男性が立っていた。Tシャツにデニムと、こざっぱりしている。
「先生! お元気でしたか?」
「待ってたよ田宮君! 元気だよ。君こそ元気そうで何より」
「さぁ、あがってあがって」と陳先生が言うと、田宮という男性は「失礼します」と言って玄関から部屋に上がった。
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二週間前のとある夜。陳先生の元に田宮から連絡が来たのだった。なんでも「先生に報告したいことがあるので、お会いできませんか?」ということだった。
陳先生は喜んで快諾し、今日の午後、田宮と会う約束をしたのだった。田宮の報告とは一体なんだろう。気になりながらも陳先生はリビングのソファーに田宮を座らせ、キッチンで中国茶を入れた。
田宮の前にお茶を出すと「ありがとうございます。いただきます」と言って口をつける。陳先生は待ちきれなくなって「で、田宮君。報告って?」と尋ねた。
田宮はお茶を飲み下すと「実は」と口を開いた。
――結婚してアメリカに行くことになりました。
――イギリス人、もしくはアメリカ人(英語が母国語の女性)と結婚することになりました。
――海外赴任になりました。
陳先生は頭の中で田宮に会うまでに予想していた答えを瞬時に頭の中に思い描く。
「TOEICで満点取りました!」
田宮は笑顔で高らかに言った。
陳先生の予想は全部ハズレた。しかし、全く悪い気はしない。TOEICで満点なんて並大抵のことじゃない。
「そうかい! すごいな! 田宮君! よくやった!」
一年前、〝にほんごなーし〟に通い始めた田宮は英語レベル0に近かった。〝ばなな〟のカードの説明に、「yellow」「white」と言っていたのだ。それが今やTOEIC満点を取るまでに成長したのだ。
陳先生は満足そうに頷きながら、これからもレッスンを楽しみながら続けていこうと決意した。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
これからの未来、今では考えられないような仕事が誕生するかもしれないですね。