四
まずもって善人の言い分がこうである。
「きっと、善人ばかりの世となれば、人々は皆平穏無事に、幸せに暮らすことができるようになります。私たちを脅かしているのは、悪です。悪さえ無くなれば、人は静かに、数多の愛に囲まれながら、団欒を築くことができるのです。——では、どうやって悪を無くしたら良いのでしょう。思うに、一つでも多く、善人が善を行うのです。善で世を満たすのです。すると、悪人は次第に居心地が悪くなって、勝手に出ていってしまいます。善の力で、悪を追いやることができるのです! 善は人を和らげ、軽くし、まるで羽の生えたかのように感じさせる力を抱いています。何て素晴らしいのでしょう! 一人でも多く、この世に善人の繁栄のあらんことを」
次に、悪人の主張である。
「笑わせるな。平穏だ? 団欒だ? 人は本来そんなもん求めちゃいねえ。人は刺激がなくちゃ生きてけねえんだ。快楽、絶頂、悪を行って——甚大な悪であればあるほど、こいつらはすんげえのが手に入る。例えば、そうだな、殺しなんてのはどうだ? そそられるだろう? 人を殺した時に得られる衝撃、あれを知っちまえば、もう二度と頬をかすめる程度の刺激には満足できなくなる。んでから、薬なんてのもいい! 手っ取り早く気持ちよくなりたいんならこれだ。幻の世界はかなりスリリングだぜえ、たとえ命を削っても体験する価値のあるってもんだ。——要は善なんてのは、退屈。真に幸福なのは悪人さ、奴らの幸せは嘘っぱちだ。低級に満足して、至上を知り得ない」
少年はどちらか選べと委ねられる。少年は再三述べる通り、どちらにでもなり得る『人間』である。人間は全て少年と同様である。この明快な世界に一度立ち入る時、二つに一つを選択することができる。この選択は人間にとって、あくまでもかりそめだ、が、単純世界の住人は全く敵味方の判断をこれによりつける。だから、熟考して選ばなくてはらならない。
少年はどちらとも決めかねる。善を選ぶべきだ、と言う声が聞こえる。けれども、善は穏やかすぎる、面白くなさそうだ。かと言って悪は、ちと過激が過ぎる。人殺しを楽しむことなど、とてもじゃないが、できそうにない。
少年は潜ってから、漂うままに定めることにする。
歩き回っていると、人だかりが見えた。その集合が、悪人かあるいは善人のものなのか、見当つかぬままで少年は近づく。おそらくこの輪に加わることになる。少年は酒気を帯びた息を吐く男に話しかけられた。
「おめえも悪人か」
ああ、少年は悪人の仲間となる。息を呑み、あてどない自身を悔やみ、それでいて胸が高鳴る。
『その者』が少年に気がつく。
「よう、お前ならこちら側に来てくれると思ってたぜ。さあ、これから善人の奴らとどんぱちやるから、お前も参戦しろ、いいな」
その者も顔を上気させている。
少年は酒を勧められる。彼は飲まなければならない。悪人であるからには、秩序など断たねばならない。
少年は程なくして、のぼせた。前後不覚に彷徨った。
「てめえら!」
衆に向かって叫ぶ者がある。
「我々の、悪人の世に相容れない善人共を、いよいよ掃討する時がきた!」
吶喊が応じる。
「奴らを全てこの世より排除し、悪人だけの世界をつくるのだ!」
盛り上がった悪人共は、行進を始める。固まりが酔っ払ったまま移動して、善人の集団と対面する。
「ええい! てめえら、全員殺してやる」
「待て! 話し合いで解決できぬか? ……尤も、君らがそんなたまじゃないのは分かっているが……血を流したくない」
「へん! かかれー!」
悪人はどうしても命のやり取りがしたいのである。彼らが求めるのは皆で勝ち取る勝利よりも、血湧き肉躍る戦慄だ。その一瞬一瞬の震えに、生きがいを見出すのである。
少年は戦争の渦中から抜けた。そこに、ピンクの頬をした『この者』がいた。この者は悲しそうな目で、少年を見つめている。
「君は、裏切ったんだね……」
「違うんだ!」
少年の否定は、乾いた空間に虚しく響く。
「良いんだ。君がそうなら、別に、僕は認めるよ」
「違うよ、俺は悪人じゃないんだ」
「へ?」
「悪人でも、善人でもないんだよ」
少年があまりの素っ頓狂を言うので、この者は不信感を強める。
「もう、良いよ」
「違う、本当なんだ! ——悪いことばっかりだと罪悪感に苛まれるし、善いことばっかりだと偽善って言葉に蝕まれる」
「何だよ! 罪悪感とか、偽善とか、聞いたことない言葉でごまかすな!」
この者が怒って少年を罵ったが最後、一切真っ暗となった。争い合う音だけが耳に残る。この者の語尾が反響して沁みる。やがて、それらまでもが消え入り、少年は無我夢中で、何か見ようとした、聞こうとした!
驚いた、少年は橙色の豆電球に灯される自室の天井と睨めっこしている。天井の木肌の向こうに、あの空想世界は展開されていたのである。
今一度、目を瞑る。彼はそうする他に無かった。