三
少年が教室に入ると、善人とも悪人ともつかない者たちがあちこちに散らばっていた。少年らは、あと数ヶ月で卒業し、中学校に上がる。皆、そんな予感は歯牙にもかけず、小学生である今を満喫している。
少年に声をかけるのは、彼の入学以来の友である。友もまた、卒業のことなど微塵も気にかけていない様子である。——卒業、少年は自身の内で唱えてみる。卒業しても、大体は皆同じ中学校に進む。別の小学校と合わさる形で、一学年が形成される。なるほど、あまり環境は変わらない。どうとでもなろう。
机は二つずつくっついて並んでいるのに、一人だけ離れている。その子は、ある特殊な病原菌を持っているらしい。病原菌? ——とかく、それは菌である。触れると汚い、菌だ。だから、その子の机には密着できない。
その子は、時々他の子を強く引っ叩く。突っ込みを入れるように引っ叩く。すると、鬼ごっこが開幕する。叩かれた子がその子の触れた部分から菌を拭い取って、他の子につける。するとその菌の押し付け合いが始まる、これが鬼ごっこである。
少年もなすりつけられると、他に菌を移す。——この時人は悪人であろう。
さて、クラスには車椅子の子がいる。皆、率先してその子を押してあげる。押してあげて、決して見返りを望んでいるわけではない。誰も彼が自身の脚で立って歩けないことを、不思議に思う者はいない。彼は彼で、何ら不自由は無いのだ。——この時の人は善人である。
善人も悪人も入り混じって、善人でいる時の多い者があれば、ほとんど悪人として過ごす者がいて、友達に対しては善人だけれど、先生に向かって悪人だったり、学校では善人でも、家では悪人をやったり、悪人だったけれど善人になって、善人だったのが一瞬後悪人となり、善人となる。
善人に憧れる悪人がいて、悪人を楽だと思う善人がある。善人めいたことを言う悪人がいて、悪人らしくても事実は善人である者がいる。悪人が間違いだと強く正義を主張する悪人がいて、善人を気味が悪いと遠ざける善人がいる。自分を悪人だと自称する善人がいて、善人と信じて疑わぬ憐れな者が悪人の場合もある——もう良いか。
とにかく、現実世界は混沌としている。少年の空想世界は、明鏡止水の世である。この二つの世を少年は行き来する。初めて徂徠した感想としては、その違いが浮き彫りになって分かった。だから、この日少年は自身が忙しなく悪と善とを取っ替え引っ替えしているのが、よく理解できた。今自分は善人だ、悪人だと逐一自覚したのだ。
善も悪も兼備するのが、人間である。この世は何と、複雑怪奇か。少年は早くもこの錯綜に頭を悩ませる。度々、純真の世へと身を浸さなくては、心の平衡を保ち得ない。
——さて、潜る。時刻は無論、夜の寝つく寸前である。
少年が顔を上げるとそこに居たのは、昨夜の『この者』ではない。この者よりもずっと鬼面の『その者』である。
その者は少年を見て、
「こいつぁ、使える」と第一声に発した。
「おい、お前、俺について来やがれ」
その者は強引に少年を誘拐する。少年が停止していると、少々手荒にさらう。
行き着いた地は、荒涼としている。ゴツゴツとした岩が砦を形作り、あちこちの陰に悪人が潜んでいる。こいつらは根っからの悪人なのである。少年は恐ろしくなった。
「おい! おもしれえもん見つけたぞ」
「ひっひっひっ、なんだあ、まさか善人じゃあ無いだろうな」
「馬鹿者。善人はこの場に足を踏み入れたら最後、二度と生きては帰れない。いくら愚かな奴らでも、そのくらいは心得ているだろうさ」
「じゃあ、何だ」
「よく分かんねえ。だからおもしれえ」
束になって少年を観察し始める。少年はずっと小刻みに身を震わせている。
「ひ弱そうな奴だ」
「戦いには使えねえ」
「何だあ——まあ、いい。とりあえずよく分からないこいつは、悪人の仲間にしなくちゃならん。——いいか、奴らは善人と言うが、俺たちに消えて欲しいと思ってる、そう願ってる。何だ、随分自分勝手な言い分だと思わないか?」
紫のバンダナを巻いた『その者』が、歯を剥き出しながら迫ってくる。
「あいつらは傷つけることを嫌うと言いながら、正当防衛だけは立派に主張しやがる。……それで俺たちは何人殺されたあ? なあ、こういう奴らのことを何と言う、言ってみろ」
一言も発したくないが、求められては仕方無い。
「偽善者」と呟く。
「ぎぜんしゃ? なんだそりゃ。俺が言いたいのはなあ、奴らは腰抜けのどうしようもねえ野郎共ってことだよ、どうだ! 分かったか」
「おい、待て、ルーク。……君、ぎぜんしゃと言ったか。そりゃ、どういう意味だ」
「まともに取り合うことねえ」
「奴らへの新しい嫌味に使えるかもしれん、だから聞いておくのだ」
背の高く頑強な男がその者を制す。
「偽善者っ言うのは、善人ぶってるってことで……」
「けっ!」
その者は一つ舌打ちを飛ばす。
「あいつらは善人で違いねえ! くだらねえこと言うな馬鹿野郎が、おめえ、つまんねえな」
少年はめでたく砦の外へ放り出される。善人は家に入れてくれた、温かい食事をご馳走してくれた。ところが悪人は興味本位にさらっておいて、用が無くなれば目のつかぬ所へ放る。善は人を暖め、悪は凍らせる。少年は夜の厳しい寒さに震えながら、木陰で眠る。