第76話 決勝戦⑰
ギリシャ劇場。舞台。砂地と瓦礫まみれの場。
砂の上に、足跡が一瞬だけ現われ、消えていきます。
踏まれたと砂が錯覚する前に、移動を繰り返していました。
(……二舞踊目より、速い。本体を目で追うのは難しそうですね)
辺りを見回しながら、冷静に状況を受け止め、身構えます。
スピードに特化した技でした。恐らく、テーマは馬でしょうか。
無意識でなく、意識的に動いているので、読み合ってくるはずです。
膨大なセンスがあると言えども、直撃すれば助からないかもしれません。
(ただ、完璧というわけでもないですね。本命の踏み込みは、予測できそうです)
見るのは、踏み込んだと同時に消える足跡でした。
足跡はすぐ消えますが、踏み込んだ瞬間だけは残ります。
その跡を注視すれば、いつ仕掛けてくるか見極められそうでした。
「――お手並み、拝見っ!」
すると、ボルドさんはあえて聞こえるように言ってきます。
声の位置は正面。小細工なしの真っ向勝負をお望みのようです。
(受けるしかない……。普通の使い手ならそう考えるのでしょうね)
膨大な経験の中から、似たような状況を思い返します。
相手が無意識でないのなら、攻略は可能。恐るるに足りません。
(力を借りさせてもらうですよ。――お母様)
右手を前に突き出し、五本の指をピンと立てます。
左手は右手首をしっかり掴み、衝撃に備え、準備は万端。
センスは十分。頭には成功した映像を、鮮明に思い浮かべます。
奥は、ギリシャ劇場の跡地。観客を巻き添えにする心配はありません。
「――白い牙」
右手から生じるのは、名ばかりな水色の閃光でした。
ただ、センスで形作られた四本の牙を剥き出しています。
まるで、口を開いた大蛇のように正面に放たれていきました。
成功です。白には至りませんでしたが、他はイメージ通りでした。
(……死なない、ですよね)
懸念があるとすれば、ボルドさんの心配でした。
全力とまではいきませんが、それなりの力を込めました。
最悪、殺してしまうかもしれません。そう思えるほどの手応えです。
「……っ」
そこに、ビクンと右手に反応があります。
牙の先に人が触れた。そんな感覚がありました。
(握り込めば、ボルドさんを殺してしまう、です……?)
手と牙は、センスで連動される感じがしました。
強く握れば、きっと顎を閉じ、四本の牙が襲い掛かります。
そうなればひとたまりもありません。人の命を手で握っているようです。
(……この試合、勝ちたいのは山々ですが、殺したいは別、ですよね)
そう考えると、手の力は自然と緩んでいきます。
他にもっと、いい勝ち方があるような気がしました。
だから、このまま、右手の力を抜いて、それで。それで。
「っ!?」
離れようとした牙に手応えがありました。
ぐいっと、右手ごと引き寄せられるような感じです。
釣り竿に大物がかかったような、ものすごい引きをしてました。
(体が、引っ張られて……っ!)
ぐぐぐっと、足を踏ん張らせますが、それでも止まりません。
徐々に徐々に、ボルドさんのいる方向に、引っ張られていきます。
「く――っ!」
ついに力負けして、体が浮き上がり、身は放り出されていきます。
完全に無防備な状態。このまま本気の攻撃を受けたら、終わりです。
最悪、死んでしまうかもしれません。それぐらい、危うい状況でした。
(あ、れ……)
ですが、その後、ずさーっという音が聞こえます。
体が砂上を滑っていき、摩擦によって停止した音でした。
おかしいです。ボルドさんなら簡単に反撃できたはずなんです。
手を抜かれたようにしか思えません。なんだか少しだけ腹が立ちます。
(……早く、起き上がらないと)
とはいえ、今は試合中、右手を支えに起き上がっていきます。
転んでしまったせいか、白い牙は、消えてしまったようでした。
「――」
すぐに起き上がって、視線を右往左往させます。
どうせ姿は見えない。そう思っていた時のことでした。
「……加減、したな」
隣には、鬼の形相をしたボルドさんの姿。
両腕の前腕が軽く裂け、赤い血がこぼれています。
そのせいか、体はぶるっと震え、薄ら寒くなっていきます。
まるで、人ではない化け物と、対峙してしまったような気分でした。
「そちらも、手を抜いた、です……」
でも、怯むわけにはいきません。
すぐに思っていた言葉をぶつけました。
実際、ここで話せていることがおかしいのです。
「殺す気でかかってこい。でなければ、拙者が貴公を殺す」
明らかに地雷を踏んでしまったようでした。
肌はピリピリして、緊張感がどっと増した気がします。
恐らく、それを伝えるためだけに、わざわざ、手を抜いたのです。
加減するなんておこがましい。全力で挑まなければ、こっちがやられます。
「おあいこ、というわけですか」
声が震えます。本気の殺し合いは、まだやったことはありません。
稽古はあくまで練習試合。命のやり取りまでは発生しませんでした。
だからこそ、怖いです。怖くて仕方がありません。口に出したが、最後。
もう二度と、今の真っ当な道に、戻ってこれなくなるような気さえしました。
(今なら、まだ……)
試合と殺し合い。この不安定な道の上をふらふらと歩いています。
もしかしたら、まだ、普通の試合に戻れる余地があるかもしれません。
殺し合いはやめましょうと言えば、折れてくれる可能性だって残ってます。
(まだ、まだ、まだ……)
考えます。短い時間の中で必死にじっくり頭を回します。
そこで、頭に浮かんでくるのは、ラウラさん。お母様でした。
(……結局、こうするほか、ないんですね)
それを浮かべてしまった以上、答えは一つにしか行き着きません。
イメージして、思い浮かべて、慎重に慎重に、吟味して台詞を選びます。
やるしかありません。言うしかありません。もう引き下がれはしないのです。
「――見逃したこと、後悔するんじゃねぇよ、ですっ!」




