第66話 在りし日の記憶⑩
事務所内の空気は異様な熱気に満ちていた。
「立った、立ったぞ、あいつ」
「動いたということは、これで性奴隷確定!」
「後は見てるだけ。あの囚人に勝てる人類など、いるわけがない」
左右に立ち、傍観している職員の声が聞こえる。
刑務所に勤めているとは思えないほど、倫理観が欠如している。
「アンドレア。そいつを取り押さえろ」
そこで、奥にいる金髪の男が冷静に指示を飛ばす。
「……承知した」
返事するのは、アンドレアと呼ばれた黒髪の男。
その体の周囲には緑色の光。センスが纏われている。
本棟を一人で制圧した存在。まともにやって勝ち目はない。
本音を言えば、逃げ出しかった。部屋の片隅で震えていたかった。
「あの時の雪辱、晴らさせてもらう」
それでも、戦わなければならない。
看守長という肩書きは、そこまで安くない。
職務を全うすることだけが、生きる価値なのだから。
◇◇◇
戦いが始まった。囚人アンドレアと、女看守ルミナとの戦いだ。
あいつに武器はねぇ。あるとしたら肉体。使える危険物なんかねぇ。
(……あいつ、あんなにやれたのかよ)
行われたのは、数発の拳のやり取りだけ。
それでも、分かる。明らかに喧嘩の質が違う。
気迫っつーのか、負けられない意思が感じられた。
(ここまで体を張られたんじゃあ、黙って、られねぇよな……)
体に活力が満ちていくのが分かる。
身を呈す覚悟。それが十分伝わったからだ。
「……」
ラウラはおもむろに、口の中へと、手を突っ込んだ。
探るのは舌の裏。些細な収納スペースをまさぐっていく。
そこから取り出したあるものを、右手で握り、辺りを見回す。
(見られてねぇか……。あいつが大立ち回りしてくれたおかげだな……)
周りの職員どもの視線は、拳を振るうルミナに注がれている。
誰もこっちを見てねぇ。意図しないミスディレクションってやつだな。
(さて、筋書きとは違うが、本番はこっからだ)
ラウラが次に見るのは、奥にいる金髪の男。
下半身の一部をさらけ出し、後輩の体に迫っていく。
自然と手には力がこもり、親指には白い六面体が挟まれていた。
(こいつはただのサイコロじゃねぇ、ってところを見せてやる)
ラウラはそう思考しつつ、椅子に座ったまま、慎重に狙いを定めていく。
「一番乗り、といかせてもらおうか」
その間にも、金髪の男は身を寄せ、体を密接に触れ合おうとしている。
(そうは、させっかよ)
狭い檻の中で、できることは限られていた。
だから、四六時中、こいつの感触を確かめていた。
死を身近に感じられて、不思議と心が落ち着くのを感じた。
『これあげる。死にたくなったら、いつでも死ねるよ』
瞬間、頭には元同居人の言葉がフラッシュバックする。
運動場でサイコロを受け取った時に、言われたセリフだ。
『あ? サイコロで人が死ぬわけねぇだろ。アホか?』
あの時は、頭ごなしに否定した。
死刑を前にとち狂ったようにしか思えなかった。
『アホだから、これを作れたんだよ。いいから、見ててね』
三つあったサイコロの一つを取り、あいつは口の中に入れた。
そして、そのまま、奥歯でガリッとかみ砕いた時に、それは起きた。
『――っ!!』
ボンという爆音と共に、飛び散ったのは、頭部と肉片。
とち狂ったってのは、ある意味で間違ってなかったんだ。
「――」
苦い思い出から戻り、ラウラは意識を現実に向ける。
親指の上に乗っかるのは、衝撃により起爆するサイコロ。
扱い方を誤れば、こっちがお陀仏。ワンミスであの世行きだ。
(ギリギリの綱渡りは何度も試した。加減はお手のもんだ)
それでも、ラウラはサイコロを親指で弾く。
同居人を殺した道具で、同居人を救うために。
「――ッ」
片目をつぶり、反射的に衝撃に備える。
助けたいと生きたいが、ちょうど五分だった。
ただ、サイコロは放物線を描くよう、綺麗に飛んでいく。
(しゃっ! 上手くいった! 天罰を食らいやがれ、腐れ外道!!)
心の中で拳を握り、吸い込まれるように金髪の男の頭部へ落ちていった。
「――ッッ!!!?」
接触、起爆。チープな爆発音と共に、男の頭上は硝煙に包まれる。
場は騒然となり、音のした方へ、部屋にいる全員が目を向けていく。
(ざまぁみやがれってんだ)
そんな中、状況を理解できるラウラは一人、口角を上げていた。
借りを返せたような感覚。性根の腐った野郎をぶっ殺せた痛快さ。
それらが合わさった快感が脳に満ち、胸はスカッとした気分になる。
「……やはり隠し持っていたか。危険物を」
そこに聞こえてきたのは、金髪の男の声。
硝煙が消え、見えてきたのは、五体満足の体。
頭部を右手で守り、表面の皮膚が軽く焼けただけ。
「あり、得ねぇ……。なんで、なんともねぇんだ……」
物理の法則に反した現象。
驚きよりも、恐怖が勝っていた。
右手で守ったところまでは、理解できる。
だけど、素手だぞ。起爆されて無事なわけねぇだろ。
「悪いが、お嬢さんには見えない領域だ。惜しかったな。イイ線いってたよ」
種明かしをされることはなく、金髪の男は感心したように語る。
今のは一度しか通用しない、言わば初見殺し。それで殺し切れなかった。
「……なにが、どうなってんだよ。ちくしょう」
泣き言をこぼすしかないくらい、状況は最悪の振り出しに戻っていった。




