第55話 約束
ギリシャ劇場。地下道。
そこは、遺跡のような場所だった。
赤い風化した壁に囲まれた通路が続いている。
壁には青い松明が等間隔に並び、暗いはずの道を照らす。
「……間違いねぇ。奥に『やつ』がいる」
せわしない足音が響き、先頭を走るラウラは口を開く。
感覚に従って道なりに進んできたが、嫌な圧が強まってくる。
本選の廊下でやられた、あの時と同じか、それ以上のもんを感じた。
「なんだか、肌がすごくピリピリするです……」
「このプレッシャー。ラウラが言ってたのはこれか……っ」
次に両隣を走るジルダとジェノが反応する。
ここまで近づいて、ようやく感じ取れたらしい。
他に人はいなかった。少数精鋭での潜入ってやつだ。
万が一の事態に備えて、上の方はボルドたちに任せてる。
「一時も気ぃ抜くんじゃねぇぞ。この骨も奥を指してる」
ラウラはおもむろに、懐から白い骨を取り出し、手に乗せる。
骨は手のひらの上で激しく震え、前方に向かって引っ張られていた。
今までにない挙動だ。釣り竿の針に魚が食らいついた感覚とよく似ている。
「反応があるってことは、じゃあ――」
「奥には、『八咫鏡』を盗んだ犯人がいるかも、ですね」
ジェノとジルダは顔色を曇らせながらも、状況と事実を受け止めていた。
奥に何があるのか知らねぇが、少なくとも盗人騒動にはケリがつけられそうだ。
◇◇◇
ギリシャ劇場地下。エトナ神殿。
祭壇中央には、膝を折るイザベラの姿。
その体には紫色のセンスが薄く纏われている。
「……その程度ですか? 教皇代理ともあろうお方が」
正面に立つマランツァーノは両手の白手袋を整え、告げる。
正直言って、期待外れにもほどがある。微塵もセンスを感じない。
弱り切った小動物を、一方的にいたぶったような気持ち悪さすらあった。
「困るねぇ……。こっちは、宗教家。アンタみたいな戦闘狂じゃないんだよ」
イザベラは黒いローブの袖で口元を拭い、疲弊した様子で語る。
言っている意味は理解できる。白教は、『白き神』を崇拝する団体。
戦闘に特化した集団ではない。今までの手応えからもそれは感じている。
(皮肉か、本心か。どちらにせよ、信用できませんね……)
ただ、経験上、大司教クラスは別格だった。
イザベラはその大司教の上。教皇代理に位置する。
強さが序列の基準ではないにしろ、何か裏があるはずだ。
――例えば。
「戦闘以外に特化した。センスのリソースは全てそこに割いている」
考えを巡らせ、頭に浮かんだ仮説をそのまま伝える。
センスは、必ずしも戦闘面だけを強化するものではない。
思考のリソースを割けば、特異な方向に尖らせることも可能。
特に芸術系は、自ら好んで変わった能力を選ぶような傾向がある。
「……へぇ、興味深い予想だねぇ。もし、そうだとしたら、どうする?」
すると、イザベラは他人事のような態度で聞き返す。
図星かどうか。その顔色からは、うかがえそうにない。
「うかつに手出しできない。まともな使い手ならそう考えるでしょうね」
カウンター型の能力である可能性も十分考えられる。
相手の能力や儀式の詳細が分かるまで手出しするのは、悪手。
手を出したことで、『白き神』が完全復活を果たせば、元も子もない。
「客観的な意見はいい……。アンタはどうするんだい?」
イザベラは回答を急くように、話を振る。
露骨な時間稼ぎをしているようにも思えてくる。
「私なら……こうします」
ただ、考える時間だけは十二分にあった。
右手の中指をパチンと鳴らし、合図を送る。
天井から現れたのは、一匹の黒い蝙蝠だった。
「持たざる者よ、等しく首を捧げて、慚愧の至りで朽ち果てよ」
起動に必要な詠唱を終えると、蝙蝠は、白く発光。
次第に白と銀。一対の細身なナイフへと変化していく。
その柄を両手でしっかりと握り、切っ先を向け、言い放つ。
「あなたはこれから私の良き隣人へと生まれ変わります。何か言い残すことは?」
それはシスターイザベラがシスターイザベラでいられる最後の意思確認だった。
「記憶を操る聖遺物か、こいつは参ったね……」
すると、イザベラはその正体を一発で見抜き、辞世の句を述べる。
これ以上は無粋というもの。二つの切っ先を十字に重ねて、準備は万端。
(人をこの手で殺めることはできない)
その間に思い出すのは、かつての師匠。リーチェとの約束。
『――人は殺さないこと。これだけは必ず守って』
呪いのように師の言葉が心を蝕みながらも、ここまで守り通してきた。
(……ただ、記憶を殺すことはできる)
その苦労も、報われる。刃と刃を打ち鳴らせば、より良い未来が待っている。
「――」
そう考えた時、刃にはサクリという感触があった。
逆手に持ち、下方向に切っ先を向けていた白い刃が、赤く染まる。
「……あ」
素の声が漏れた。これまで被り続けた仮面は、いとも容易く崩れ去った。
(なんで、どうして……)
背筋が凍る。身の毛がよだつ。手が震える。
吐き気を催す。頭が理解を拒む。心が黒く染まっていく。
「ジェノ・マランツァーノ。確かに、アンタの名前。海馬に刻んだ、よ……」
イザベラは自らの意思で、頭に刃を突き刺した。
口からは血を垂らし、皮肉を言いながら、目を閉じた。
「あぁ……あぁぁぁぁあぁああああああぁぁぁぁぁっぁああ!!!」
この日、初めて、人を殺した。師匠の教えを真っ向から破る形となって。




