遠い空に憧憬を
夢があった。
幼い頃、少年は夢を持っていた。今はもう忘れてしまったことだけれど、確かにそこには夢があった。
大人になり、日々に流され生きていく。それは当たり前のことで、子供の頃の夢や憧れは失って仕方ないものだと多くの人は言う。かく言う彼も同じ意見だった。
人生、時間を積めば積むほどに経験が増える。
経験なんて一言で言い表せないようなものではあるけれど、やはり彼にとっては経験でしかなくて。迷って、悩んで、苦しんで、笑って、喜んで、泣いて、叫んで。多くの経験を経て、彼は大人になった。
ただ社会の波にもまれただけではない。生きていくための処世術というものを学んでいった。
学び、育ち、知り。
大人になるに連れ、子供であった自分は削れていなくなっていった。今はもう、当時、少年だった頃の憧れなど思い出せない。夢なんてあったかと、そう思うくらいには失くしてしまった。
けれど、たまに思う。
空を眺めていて、思うことがある。
あぁ、綺麗だ。美しい。眩しくて、遠くて、広くて。手を伸ばしてみても届かなくて、届かないとわかっているけどつい伸ばしてしまって。触れられないその青に心が惹かれる。
所詮、ただの可視光線でしかないと、頭のどこかで自分が言う。科学の時代に生きる彼は、ある程度の知識は有していたから。空の色は人間に認識できる範囲の色が反映された結果の青でしかなく、漂う雲は水蒸気の塊――つまりただの水でしかなくて。ロマンの欠片もない、すべて文字列で解説できてしまう事柄だと知っていた。
でも。そうだとわかっていても目を離せない時がある。
青空。
雲一つない晴天。遮るもののない広い公園に寝転がると、見える景色すべてが青一色で埋め尽くされる。涼やかな青。美しい青。鮮やかな青。
自分の生きる世界が、なんとちっぽけなものか。彼の思考は青の大空の前で豆粒一つにすら満たない小ささでしかない。世界の広さを思い知る。その時間は、空を眺めている時間はすべてを忘れられた。社会も、友も、家族も、自分すらもいない。まっさらで透明な世界。
頬を伝う熱い雫に、ふと我に返ったことさえある。
雨空。
彼は、雨の空が好きだった。
見上げた空は薄暗く、それなのにどうしてか普段より明るく感じた。降り注ぐ雨粒を浴びていると、自分が世界と一つになったような気さえしてくる。痛みを忘れ、苦しみを忘れ、喜びを忘れ、自分を忘れ。濡れた服の冷たさに意識を引き戻されるまで、ただただ雨空を感じていられる。そんな雨の空が、彼は好きだった。
雨宿りに、大きな樹の下で遠く広がる暗い雨天を眺める。時間は有限で、それでも無限のように感じられる時間を、いつまでもいつまでもと。彼は一人過ごすことが多かった。
夜空。
仕事から帰ると、空は暗くなっていることが多かった。
春は優しい風が吹き、夏は蝉の声が広がり、秋は鈴の音が響く。そして冬は、しんしんと静まった雪の世界が広がる。
どの季節でも、空は変わらかった。雲があるかないか、ただそれだけ。曇りの日も、雨の日も、雪の日も。雲の有無しか違いはない。けれど、夜空は毎日その姿を変えていた。
月が変わる。星座が変わる。明度が変わる。世界が変わる。
星々の煌めきが、彼の心をざわつかせる。
見上げると、小さく輝く星が瞳に映る。雲に隠れて見えない時もあれば、澄んだ空気にはっきりと見える時もある。
いつの日も、夜空は暗く、そして眩しかった。
昔、彼は何かに憧れていた。
なんだったろう、と。そんなことを思う。
時間に押し流された夢、願い――憧憬があったはずなのだ。
考えて、考えて。ぼんやりと月光に照らされた夜空を見つめ続ける。忘れてしまった何かを探して、失くしてしまった何かを求めて。
ふと、空に光が瞬いた。
星が流れる。流星だ。一筋の流れ星が、ひっそりと夜空に軌跡を残す。
それを見て、彼は思い出した。
あぁ。
吐息と共に声がこぼれる。
なんてことはない。彼が憧れていたのはずっとずっと、頭上から彼を見守っていたものだった。晴れの日も、曇りの日も、雨の日も雪の日も。春夏秋冬、一年中ずっと。毎日毎日、たまに見上げて眺めて、飽きることなく手を伸ばして苦笑し続けた。
彼がなりたかったのは――。
「――空だったか」
遠い空に、憧憬を持っていた。
いつも通り、けれど少しだけ気持ち穏やかに。変わらず持ち続けていた憧れはそのまま、彼はもう一度夜空に手を伸ばす。
届かぬ星に、届かぬ雲に、届かぬ空に。
わかっていても伸ばしてしまう。近くて遠い、夢の空。
つ、っと伸ばしていた手を下ろし、薄っすらと微笑んで彼は家路を行く。
今日もまた、一日が終わる。変わらない一日。空のある一日。
明日も、明後日も。これから先、長く続く日々を空は見守っている。彼だけでなく、世界中の多くの人々を。
ふとしたとき、顔を上げて空を見てみる。そこには空がある。何の変哲もない空が。広く大きく、雄大な大空があるだろう。
青空に、夜空に想いを馳せて。今日もまた、一日が過ぎていく。