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名ゼリフから読み解く 大東亜・太平洋戦争  作者: 佐久間五十六


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ハンソン・ボールドウィン

 「癪にさわる程立派な連中だった。」

 ハンソン・ボールドウィン(軍事評論家)

 ルンガ沖海戦に参加した米国海軍の人間は、口を揃えてこう感嘆したと言う。また、世界的に有名な軍事評論家である、ハンソン・ボールドウィンは、戦後になって出版した著書の中で、激愛している。彼はこうだんげんする。

 「太平洋戦争を通して日本には、二人の名将がいる。陸の牛島、海の田中。」

 牛島とは、帝国陸軍沖縄第32司令官牛島満陸軍中将であり、癪にさわる程立派だった海の名将は第2水雷戦隊司令官田中頼三少将そのである。田中頼三少将は、明治25年(1892年)4月山口県生まれ。海軍兵学校41期、卒業席次は118人中34着、つまり第一線向きの成績であったと言える。戦艦金剛艦長、から第6潜水隊司令官を経て、開戦直前の昭和16年(1941年)9月に、第2水雷戦隊司令官となっている。

 生まれながらの生粋の水雷屋提督であったのだ。この当時50歳。誰を評させても、磊落なそれでいて、細心の注意力を怠らない提督であったそうである。ちなみに海軍大学校には行っていない。戦後は、故郷の山口市朝田で農村の中にある庄屋を経営して過ごしたのだと言う。

 しかし、田中頼三少将の行動(ルンガ沖海戦)が称えられ正当に評価された訳ではなかった。この当時田中頼三少将に与えられた任務は、「輸送任務」であり、敵艦隊を「攻撃」する事ではなかったからだ。たとえ戦闘が不可避であっても、戦うなら輸送を終えてからにしろ。これこそ大本営お得意の現場の実情も知らず、屁理屈ばかりを押し通す「正論ありき戦法」と言えるだろう。

 あそこで、もしドラム缶輸送を続けていれば、間違いなく第2水雷戦隊は米国艦隊の餌食になっていただろう。田中頼三少将の判断は正しかった。それでも大本営は命令と違う事をした田中頼三少将を認めようとはしなかった。

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