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名ゼリフから読み解く 大東亜・太平洋戦争  作者: 佐久間五十六


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石川信吾②

 「当然あるものと覚悟していたさ。石油は俺達の生命線である。その息の根を止めるなら"戦争"さ。」 石川信吾日本海軍少将

 昭和14年(1939年)に三国同盟を巡って紛糾した、海軍中央にいた米内光政、井上成美、山本五十六ら海軍良識派3羽烏は、同盟結成に断固反対して、同盟問題は一旦雲散霧消したのだが、海軍内部に深い亀裂を残していた。

 米内光政、井上成美、山本五十六の3人が中央を去るとその反動が起きてしまう。親独派の岡敬純(海軍兵学校・海軍大学校卒)が軍務局長に就任。岡は、陸軍に引きずられる事無く、海軍独自に国防政策を策定しようと、政務機関である軍務局第2課を創設する。この時岡敬純が海軍省人事局の猛反対を抑えて課長に任命したのが、石川信吾であった。

 そして、昭和15年の暮れに第1~第4まで4つの委員会によってなる「海軍国防政策委員会」が誕生。この委員会に対米強硬派が勢揃いする事となったのである。その中心が石川信吾が所属した第1委員会であった。軍令部総長永野修身は、「今の中堅クラスが一番勉強しているから、彼等に任せる。」等とリーダーにあるまじき無責任な事を口にして"中堅クラス"つまり、岡敬純以下石川信吾らを甘やかした。勢いづいた彼等はやりたい放題。この第1委員会が結果的に太平洋戦争への扉を押し開く事になって行く。

 昭和16年(1941年)7月末、大本営陸海軍部は石川信吾の描いたシナリオ通りに南部仏印進駐を実行する。陸軍部内には、これをやったら米国は黙っていないと危惧する勢力もあった。米国はこれを受けて、直ちに在米日本資産の凍結、さらに石油の全面禁輸と言う峻烈な報復政策を発動。すると、石川信吾はこの様なセリフを吐いてうそぶいていたと言う。勝てる勝てないと言う様な判断基準ではなく、あくまで自分のやりたい事をやり続けると言うのが、石川信吾の基本姿勢だった様にも見受けられる。

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