評論
「永田の前に永田無く、永田の後に永田無し。」
評論
永田鉄山は、昭和初期の帝国陸軍の中心人物であった。明治17年(1884年)長野県諏訪市で、代々医師であった家に生まれている。その頭脳明晰さは、帝国陸軍80年の歴史の中でも一、二を争うものであった。陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校を全て優等卒。その上勉強家で、俸給の半分は書籍代に充てられたそうである。「合理適正居士」と、あだ名をつけられるほどの理性派で、その人間的にも能力的にも、郡を抜いたスケールの大きさから、このセリフの様に評された。
その永田鉄山が軍政畑を歩むのは、歴史の必然とも言えた。昭和陸軍の象徴的対立である皇道派と統制派の対立の元を生み出した人間でもある。結局、それが火種となり昭和10年(1935年)8月白昼の軍務局長室で、皇道派の隊付将校相沢三郎中佐に斬殺されてしまう。所謂相沢事件である。これを持って昭和の帝国陸軍は、永田時代を迎える寸前で、大転換を余儀無くされた。
泥沼にはまっていく前に永田鉄山ありせばどうなっていたことかと考える。永田鉄山であれば、精細緻密な戦理を持って検討し、吟味し、曖昧いい加減そのままに、ただの「撃論」のみにすがってきた連中を抑える事が出来たかもしれず、日中戦争を始められる事を阻止する事が出来たかもしれない。
開戦時、企画院(日中戦争から始まった昭和12年10月に戦時下の統制経済政策を一本化するために内閣に作られた機関)総裁であった鈴木貞一陸軍中将が戦後になって、「もし、永田鉄山ありせば、太平洋戦争が起こることも、東条英機が出て来る事も無かった。」とも言っている。
永田鉄山の様な人材は滅多に生まれないが、そうした先見の明ある人材は大いに活用せねばならない。ただし、それが本物であるかどうか、単なる蒙想家に過ぎないのか。上の者は余程その使い方に注意しなければならない。




