表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
名ゼリフから読み解く 大東亜・太平洋戦争  作者: 佐久間五十六


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

90/120

評論

 「永田の前に永田無く、永田の後に永田無し。」

 評論

 永田鉄山は、昭和初期の帝国陸軍の中心人物であった。明治17年(1884年)長野県諏訪市で、代々医師であった家に生まれている。その頭脳明晰さは、帝国陸軍80年の歴史の中でも一、二を争うものであった。陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校を全て優等卒。その上勉強家で、俸給の半分は書籍代に充てられたそうである。「合理適正居士」と、あだ名をつけられるほどの理性派で、その人間的にも能力的にも、郡を抜いたスケールの大きさから、このセリフの様に評された。

 その永田鉄山が軍政畑を歩むのは、歴史の必然とも言えた。昭和陸軍の象徴的対立である皇道派と統制派の対立の元を生み出した人間でもある。結局、それが火種となり昭和10年(1935年)8月白昼の軍務局長室で、皇道派の隊付将校相沢三郎中佐に斬殺されてしまう。所謂相沢事件である。これを持って昭和の帝国陸軍は、永田時代を迎える寸前で、大転換を余儀無くされた。

 泥沼にはまっていく前に永田鉄山ありせばどうなっていたことかと考える。永田鉄山であれば、精細緻密な戦理を持って検討し、吟味し、曖昧いい加減そのままに、ただの「撃論」のみにすがってきた連中を抑える事が出来たかもしれず、日中戦争を始められる事を阻止する事が出来たかもしれない。

 開戦時、企画院(日中戦争から始まった昭和12年10月に戦時下の統制経済政策を一本化するために内閣に作られた機関)総裁であった鈴木貞一陸軍中将が戦後になって、「もし、永田鉄山ありせば、太平洋戦争が起こることも、東条英機が出て来る事も無かった。」とも言っている。

 永田鉄山の様な人材は滅多に生まれないが、そうした先見の明ある人材は大いに活用せねばならない。ただし、それが本物であるかどうか、単なる蒙想家に過ぎないのか。上の者は余程その使い方に注意しなければならない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ