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名ゼリフから読み解く 大東亜・太平洋戦争  作者: 佐久間五十六


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野田謙吾

 「こういう人間を残しておくと、将来大きな過誤を犯すから、直ちに予備役にした方が良い。」

 野田謙吾陸軍少将

 当時の陸軍省人事局長であった野田謙吾陸軍少将が、ノモンハンで戦った辻正信中佐を評して、こう言っている。他にも現場の内外から辻正信中佐を批判する声が出た。

 しかし、ここで辻正信中佐を残せと言う"天の声"があった。それは、辻正信中佐を可愛がっていた東条英機陸軍大将の一声であったと見られる。結局のところ、関東軍司令官の植田謙吾が責任を問われて、予備役に回っていたものの、辻正信中佐は、参謀に責任を負わせないと言う、陸軍の慣例に基づき、一時的に閑職におかれたものの、直ぐに復活。2年後には、要職である参謀本部の作戦課に配属され、戦力班長と言うポジションを得た事もまた、東条英機陸軍大将の肝いりであった事は否定出来ない。

 この後には、同じく作戦課長に舞い戻っていた服部卓四郎と再びコンビを組んで、「北が駄目なら今度は南だ!」とばかりに、南方に進出。対米英戦争への道を推し進める。更に辻正信中佐は、太平洋戦争開戦時にはマレー作戦に参加して、シンガポールで「華僑虐殺事件」を起こしている。シンガポール陥落後、抗日分子を排除する為に自ら「掃討作戦命令」を出して、多くの華僑を処刑させたと言う事件である。

 処刑をやらされた、憲兵の管理者である西村琢磨近衛師団長と、警備司令官であった河村三朗少将がこの虐殺事件の責任を問われて、後にB、C級戦犯として処刑されている。

 これだけ現場の人間から、批判もあり実際に多くの問題行動を犯している男が、エリートで権力者の肝いりがあったというだけで、これだけ好き放題出来るというのが、大日本帝国陸軍であるのだとすれば、最早組織の体を成してはいない。正常な機能も不全に陥っている。不運やミスと言うのは連続するのが、世の常である。辻正信中佐と言う時代が生んだ爆弾男は、この戦争におけるミスや不運の象徴である。

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