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名ゼリフから読み解く 大東亜・太平洋戦争  作者: 佐久間五十六


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辻正信

 「私の体の中には、5ヶ国の敵弾丸が入っているんだ。」 辻正信中佐

 辻正信中佐は、明治35年(1902年)石川県に生まれた。名古屋幼年学校首席、陸軍士官学校首席、陸軍大学校は3位で軍刀組と、成績は文句なし非の打ち所の無いエリートだった。会う人、会う人にこのセリフを言い聞かせていて、「最初は上海事変での中国の弾丸。次はノモンハンのソ連の弾丸。」と言う具合に見せたと言う。

 その話しぶりからも分かるように、自らの戦争責任など全く感じていなかった。辻正信中佐が歴史上でやった事の最たるものは、ノモンハンでの一件だろう。昭和14年(1939年)ソ満国境で紛争が発生すると、関東軍作戦参謀であった辻正信中佐は、主任作戦参謀服部卓四郎と相謀って、中央の意思を無視して、ひたすら戦局を拡大していった。

 そもそもこの事件は、相手が元々曖昧な国境線をまたいで領内に侵入したと言い合った単なる国境紛争である。本来ならすぐ終わるはずの、揉め事に過ぎなかった。ところが辻正信中佐は、陸軍中央や参謀本部に何ら報告する事無く、国境を越えた外蒙古領内へ、飛行機による爆撃を推し進める。本人は、満州事変で石原莞爾のやった様に武勲を上げて勲章の一つでもものにしたいと言う本音があったのかもしれないが、結局目の上のたんこぶの関東軍を撃破するチャンスと見たソ連軍の戦車・装甲車を中心とする大部隊との戦闘に発展する。

 事変に参加した日本軍の兵力は、約5万6000人。うち戦死8440人、負傷8766人で通算の死傷率は約31%と言う惨憺たる結果だった。辻正信中佐は、ただただ敵を甘く見て、攻撃一辺倒の計画を推進し、将兵達をこれに従わせたのである。大本営からは、「拡大すべからず」と言う命令が届いていたが、辻正信中佐は、完全に無視していた。

 結果は関東軍の大敗に終わる。事変終結後、善戦した師団長等は自決を強要され、それのみならず、捕虜交換で戻ってきた将校達も自決に追い込まれている。辻正信中佐の様な上司を持ってしまったのが、運の尽きであったのかもしれないが、そうしたレベルの話では最早ない。

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