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名ゼリフから読み解く 大東亜・太平洋戦争  作者: 佐久間五十六


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石原莞爾

 「俺が上官の間は、無駄死にはさせない。」

 石原莞爾

 石原莞爾は、明治22年(1889年)山形県鶴岡市尼生まれた。陸軍士官学校では卒業成績6番目で、陸軍大学校は次席で、恩賜の軍刀組であった。陸軍大学校卒業時本当は首席だったのに、身なりを気にしない男で、何を言い出すか分からないと上層部が心配して、御進講をさせない為に次席に落としたと言ったエピソードもある。

 型にはまった学術優等、品行方正の将校ではなかった。あたりかまわず、遠慮会釈無しに他を酷評する峻烈さと、一旦こうと信じたれば反抗も辞さない姿勢は多くの人に嫌われた。特に上長の者が嫌がった。

 その独立不覇の異端児ぶりが上層部に敬遠されて、関東軍作戦参謀迄の経歴を見ると、軍刀組としては異例の二流コースを歩いている。その反面、石原莞爾は部下からは随分と慕われた様てある。この様なセリフを吐いては、兵士と一緒に寝食を共にした。上層部に言うべき事は言ってくれる、そんな姿に部下達は信頼感を厚く感じていた。

 石原莞爾が歴史の表舞台に出てきたのは、満州事変の頃からである。また石原莞爾は「世界最終戦論」と言う持論を持っていた。準決勝で、ソ連と米国が戦い米国が勝つ筈だから、それまで大日本帝国は、しっかり満蒙を抑えてじっくり力を蓄え来るべき最終決戦に備えるべき、と言う持論である。

 石原莞爾の中では、満蒙領有はその一段階に位置付けられたモノであった。良い悪いは抜きにして、当時としては独自の世界観・戦略を持ち、これだけの壮大なスケールの構想を持っていた人間はいない。陸軍大学校の当時のいびつな教育内容を考えると、石原莞爾の様なユニークな人材が出てきたのは稀有な事であった。満州事変の後は陸軍中央の拡大派に疎まれて、関東軍参謀副長に左遷されている。

 結局、石原莞爾は舞鶴の司令官を経て、京都の師団長へと追いやられ、昭和16年(1941年)には予備役となり、陸軍から放逐されている。外に広げた人脈ばかりを頼り、軍内部に頼れる同士を作る事が出来ず、孤高の自信家に過ぎなくなってしまった事は誠に残念である。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 東条英機は才能があるタイプではなく「竹槍では戦えぬ」事件を見ればわかる通り問題のある人物ではあったが陸海軍の仲の円滑化に勤める(出来てない)や天皇陛下にはきちんと滅私の忠誠を誓っていた…
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