牟田口廉也③
「ちゃんと見ている人は、見ているのだ!君達は分かっとらん!」 牟田口廉也陸軍大将
インパール作戦は、予想通り大失敗に終わる。それはそれは悲惨なものであった。飢え死にしたものは数知らず、日本兵の死体がインパール街道に山をなし、負傷兵の上を英国軍戦車が爆進していった。牟田口廉也は、作戦の失敗を3人の師団長達に押し付けて、自分はノウノウと責任を問われぬまま、生き延びている。
この大敗北の後、昭和19年(1944年)12月に牟田口廉也は、一旦予備役に回されるが、直ぐに現場に召集される。しかし、もう戦局は極度に悪化していて、牟田口廉也のような無能な指揮官を配備するところがなかった。結局、予科士官学校の校長と言うポストにおさまっている。戦後は、昭和20年(1945年)12月に連合国軍に逮捕されて、巣鴨プリズンに戦犯容疑者として入り、シンガポールに移送される。
だが、大した罪には問われずに釈放されている。その後は大分時が経ち英国で、インパール作戦に関する本が出版され、その中で日本軍の作戦構想を誉めている部分が少しあったが、牟田口廉也はその論旨だけをピックアップし、このセリフの様に自らの失敗を正当化している。憎まれっ子世に憚る、牟田口廉也は昭和41年(1966年)この世を去っている。
牟田口廉也は、東条英機の威を借りて与えられた以上の権限を振り回した。大失敗しても、一切の責任を取らず、遂には自らの失敗すら反省する態度を1㎜も見せなかった。牟田口廉也の様な無能だが権限を発揮して、大損害を出した指揮官を数え出したら枚挙にいとまが無い。大東亜・太平洋戦争を通じて、日本陸海軍は、おびただしい数の兵隊を無能な指揮官の作戦によって失って行った。インパール作戦はその最たるものである。
現場の3人の師団長は、迷わず作戦中止を求めていたにも関わらず、これ等の意見を弱腰と退け、師団長を次次に更迭して自らの意思を曲げなかった。ビルマ(現ミャンマー)北部からのインド侵入は、山谷険しい山脈や渓谷が続いており、補給が困難だからである。にも関わらず牟田口廉也は、ジンギスカン戦法等と、とても近代的で、合理的とは言えない荒業を持ってして、作戦を強硬してしまう。
こうした無理難題を、馬鹿みたいな作戦で乗りきろうとする姿勢が、日米の勝敗の差になったのだろう。米軍ならばこんな事はしない。いずれにしても、明らかに失敗すると分かっている作戦は、ごり押しするべきではない。




