富永恭次
「諸君は既に神である。君等だけを行かせはしない。最後の一戦、本官も特攻する。」
富永恭次陸軍中将
富永恭次陸軍中将は、権限を発揮する事なく、失敗の責任も、一切取らなかった者の典型である。富永恭次中将は、帝国陸軍第4航空軍の司令官であり、長崎県生まれで、陸軍士官学校及び、陸軍大学校卒業のエリートである。
東条英機の腰巾着で東条英機内閣では、陸軍次官を務めるなど、その軍歴は華々しかった。第二次世界大戦前は、陸軍省人事局長を務めていた。
だが、東条英機内閣が崩壊すると、富永恭次中将は、初めて前線に出される。近代戦争の実戦経験は無く、のみならず歩兵出身で、航空戦の知識は皆無と言う門外漢であった。日本軍劣勢が極まるにつれて尚、こんな人事がまかり通っていた。富永恭次中将がやった事の代表的なものとしては、帝国陸軍初の特攻部隊である万朶隊をはじめ十死零生の作戦に未来ある、若者達を出撃させた事であった。
その特攻部隊を送り出す時のセリフがこれである。ところが、「自らも特攻する。」など大ウソでレイテ島を米軍に奪回されると、出撃どころか、指揮下の将兵をフィリピンに置き去りにして、台湾に勝手に軍司令部を移動させている。富永恭次中将は、「体制立て直しの為の行動。」等と主張したが、実際は側近の参謀等高級将校を連れての敵前逃亡であった。しかも、あろうことか女を連れて。
無事台北についてからは、胃潰瘍を理由にあろうことか湯治をのんびりしている。これ等富永恭次中将の一連の行為は、明らかな軍規違反で、本来なら軍法会議もので、台湾で総すかんを食らう。一兵卒の下級兵士さえ、富永恭次中将には敬礼をしなかったと言うエピソードは有名である。富永恭次中将の行動は、大本営でも問題視されて、1945年2月に待命、同年5月に予備役に編入された。
後に、「卑怯にも逃げた者を予備役に、銃後に置くのはおかしい。」と、懲罰的に1945年7月に召集され、満州の関東軍に第139師団長として、赴任させられている。この時も、師団長であるにも関わらず、現場の指揮から逃げて責任者として、ほとんどやる気を見せなかった。結局、富永恭次中将は、シベリアに抑留されて、1955年(昭和30年)に無事帰国している。富永恭次中将の満州への左遷など、罰とも言えぬ緩い措置であり、役立たずで無責任なエリートの典型であった。




