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中島知久平

 「あんな馬鹿デカイ戦艦を作るよりも、飛行機を沢山作った方が、遥かに安くて有効だ。」

 中島知久平

 航空機中心主義を、大正時代から提唱していたのが、中島知久平である。この様なセリフを主張して大正時代半ばに海軍を辞めて中島飛行機を創業した。中島飛行機は、海軍機関大尉であった彼が、退官し大正6(1917)年に作った飛行機製造会社である。

 初めは飛行機研究所などを称したが、昭和6年中島飛行機株式会社となる。大正8年に中島式4型が軍に採用されたのを皮切りに、帝国陸海軍から次々と注文を受けて、97式戦闘機、隼、日光等の名機を生産した。戦後は富士重工業となり、自動車等を生産している。

 さて、いざ航空機の時代が来てみると、中島知久平の言うように、安くはならなかった。航空機戦略と言うのは、飛行機さえあれば成り立つと言うものではない。空港は必要だし、管制システムやレーダー等の諸インフラ、航空機の整備場と工員。等、様々なシステムが新たに必要になる。船さえ作れば、旧来の港湾設備が使える戦艦とは、違うのである。

 空母機動部隊による航空機中心主義とは、飛行機の大量生産が出来るかどうかが、勝負なのに、日本陸海軍は、出来なかった。真珠湾での大勝利に酔って、皮肉な事に自らそう言う時代を招き寄せてしまった。中島知久平の先見性は、光るものがあるが残念ながら、開国後たかだか70年程度の日本には、エレクトロニックスから、技術的な体力に至るまで、何もかもが欧米とは劣っていたのだ。それは決して日本が欧米よりも総合力で劣っていた訳ではない。あくまで、航空機産業の世界だけの話である。事実、日本は戦後技術立国として、立派に経済発展をとげている。日本が米英と戦っていたあの時代においては、日本の航空機産業は三流であった。

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