黛治夫
「相手が動くからだ!」 黛治夫
戦艦大和の艤装員副長を務め、巡洋艦利根の名艦長として鳴らした黛治夫は、戦艦大和の砲弾が当たらなかった理由をこう評している。元々、かなり接近しないと戦艦の弾は当たらない。日露戦争の日本海海戦では、ロシア海軍の戦艦とかなり接近して、戦った事により、かなりの戦果をあげる事が出来、結果として日本海軍の勝利に繋がった。
戦艦大和の照準装置は、確かに素晴らしいものがあるのだが、いざ実戦となると、標的の手前で、駆逐艦は煙幕を焚くため、照準しようにも出来なくなってしまう。余程の優れたレーダーが無ければ、戦艦大和の46㎝主砲を敵艦隊に当てるのは、難しかった。また、大砲は微妙な要因で、着弾する位置が異なる。
例えば、一発打つ度に衝撃や熱などで、砲身が歪んでくる。また、火薬と砲弾の状態によっても微妙に変わる。戦艦大和の主砲は、それをも織り込んで、何発目かいつ積んだ火薬と砲弾なのかまで計算するシステムがあった。それでも当たらなかったのであるから、実戦は理屈通りにはいかない事が分かる。
日本海軍には、「射撃教範」と言うものがあった。それを作ったのが猪口敏平大佐である。明治28年8月11日生まれで、鳥取県気高郡の出身。海軍兵学校第46期、戦艦扶桑砲術長や、連合艦隊参謀、第一艦隊参謀、軽巡洋艦球摩副長、海軍砲術学校教官、特務艦石廊艦長、重巡洋艦高雄艦長等を歴任して、昭和18年12月1日より再度海軍砲術学校の教頭(兼任研究部長)を務めた。
4男1女の子宝に恵まれた、猪口敏平大佐は、日露戦争以来受け継がれてきた大口径砲である、「射撃教範」を今一度理論的に組み立て、これに指揮法を加味して、大口径砲の射撃理論を大幅に改訂した人物である。海軍内部では、「砲術の大家」或いは、「大砲の神様」等と称されていて、日本海軍屈指の射撃理論の権威としてその名はあまねく知れ渡っていた。にも関わらず、大和の主砲が活躍しなかったのは、歴史の皮肉なのかもしれない。