C.スプレイグ
「大和の砲弾が頭上を通過する度に、地下鉄が目の前を走るような、凄い音がした。」
C.スプレイグ
レイテ沖海戦で、戦艦大和の砲弾を受けた米国海軍護衛空母郡のC.スプレイグ司令官は、このセリフの様に生きた心地がしなかったと語っている。巷間よく言われる事であるが、真珠湾攻撃によって戦艦の時代は終わった。これからは、空母と飛行機の時代だ!となると、日本海軍は戦艦大和の使い道が無くなった。と、短絡的に判断してしまった。
もし、将来艦隊決戦があれば、引っ張り出せば良い。と、言うので後は連合艦隊旗艦として、エアコン完備の「ホテル大和」として使うしかなかった。国家予算の約4%(当時)にあたる巨額の費用とのべ300万人以上のマンパワーを投入した戦艦を"宝の持ち腐れ"にしてしまった。一方の米国は、戦艦の新たな使い道を必死で考えた。
飛行機相手には敵わない。機動部隊の護衛も出来ない。他に何か使い道はないかと考えた。その結果として、陸上への艦砲射撃なら良かろう。となり、積極的に投入した。硫黄島や沖縄戦でも、上陸前に徹底的な艦砲射撃を行っている。いくら優れたハードウェアがあったとしても、いかにして使うかと言うソフトが無ければ、何の役にも立たない。日米の差はソフトウェアの力の差であった。
歴史にIFはタブーだが、戦艦大和が効果的に使えた絶好の機会は恐らく、ガタルカナル島砲撃の時であっただろう。実際に山本五十六は、砲撃に参加しようと言う意思を示していたが、参謀達が、「長官が出るには及びません。」と、止めてしまい結果として戦艦金剛型を出したが沈められた。最も打撃力に優れ、防御力の強い艦を引っ込めて、最も古参の艦を出したのであるから、作戦としては下の下である。
だが、それは現実的では無かった。戦艦大和が停泊しているだけでも、一日50トンの重油を消費するのに、ただ艦砲射撃の為にトラック泊地から出撃するのは、付随する艦隊にとっても命懸けだった。他にも「油送船」や「高速揚陸支援艦」としても使い道が検討されたが、そうならなかったのは、歴史の示す通りである。