柴田武雄
「名機零戦を駄馬にしたのは源田実だ。」
柴田武雄 日本海軍大佐
「航続力と速力、格闘力のうち優先順位をつけてくれ。」と零戦の設計担当堀越二朗が、昭和13年4月に開かれた計画説明審議会の席で申し出た所から、海軍内部は大論争になってしまう。
かの有名な源田・柴田論争である。源田実(1904~1989)は、日本海軍大佐で、戦後航空自衛隊に入り航空幕僚長(空将)を務めた後、参議院議員を4期務めた。一方の柴田武雄(1904~1994)も日本海軍の大佐で、源田実とは海軍兵学校の同期(第52期)である。太平洋戦争中は、数多くの航空隊司令を務めた。太平洋戦争中源田実は、練達のパイロットを集めた「源田サーカス」で有名を轟かせた横須賀航空隊の飛行隊長を務めた。その源田が格闘性能を最優先させよ。と、唱えれば、兵学校出とは言え、飛行隊の叩き上げで航空厰の主務者であった柴田武雄は、速力と航続力を重視すべきだと、主張して互いに譲らない。
結局結論は出ず、堀越二朗は格闘、速力、航続力の全てを満たすような設計を迫られる。柴田武雄は戦後、この様なセリフを吐いて怒っていたと言う。源田実が何を懸念したかを推測すると、速い機体であればあるほど、どうしても着艦速度が早くならざるを得ず、初級者パイロットが空母に降りる時、貴重な飛行機やパイロットが戦死するのを危惧していた。それを心配したのかもしれない。
その結果として、源田・柴田両者の要求を満たす為、設計陣は徹底的な軽量化に取り組み、あの名機零戦が生まれた訳である。いつまでたっても事態を収拾出来ず、戦線だけが拡大していた泥沼の支那事変と、定見の無い海軍の要求が日本を代表する名機を生んだとは、これも歴史の皮肉だろう。
しかし後年、零戦の弱点として指摘される事のほとんどは、かの最初の無理難題の矛盾した要求に起因していた。例えば航続力を伸ばし、格闘能力を伸ばす両立を図る為、零戦はギリギリまでの軽量化を図った。その為に、金属のボディに小さな穴を沢山あける、所謂"肉抜き"を行い機体を軽くした。のだが、これは手間がかかるので、大量生産には不向きだった為ボツ。ここでも実戦でどう使えるかと言うよりも、書類審査による軍のカタログ性能偏重主義が如実に現れている。