坂井三郎
「照準機からあふれるほど大きかった。こんな飛行機があるのかと、肝を潰した。」
坂井三郎海軍中尉
著作「大空のサムライ」で戦後有名になった坂井三郎(1916年~2000年)は、元帝国海軍中尉で、16歳で4等水兵として佐世保海兵団に入隊。叩き上げで、日本海軍航空隊のエースパイロットの名を、欲しいままにした。
その坂井三郎中尉が大戦当初に米軍に配備されていた"B-17"と言う爆撃機を見て感じたのが、このセリフである。米軍の兵器の特徴は、デカイ・馬力がある・大量生産出来て、扱いが簡単と言う日本軍とは対照的なものがある。
そんな米軍も第一次世界大戦の頃までは、軍事技術はかなり遅れていた。戦闘機は、フランス製のスパッドの方が米国製の戦闘機よりも、はるかに高性能であったので、米国人の義勇軍航空隊もスパッドを使っていた。
航空機に関しては、太平洋戦争の海戦当初までは米軍は大した事は無かった。零戦を始めとした日本の航空機の方が、はるかに優れていた。ところが、太平洋戦争が始まると、米国は爆発的な技術革新で、瞬く間にして日本を追い抜いて行く。第二次大戦当初のB-17爆撃機を10点とするならば、第二次大戦末期に日本本土を空襲したB-29は、100点である。同じ国の爆撃機とは思えない程の進化を遂げている。
与圧室の採用や、先進的な火器管制システムの採用など、一世代も、二世代も先を米軍は行っていた。その10点のB-17でさえ、日本軍は苦しめられた。太平洋戦争初期に南方戦線で制空権をとりながら、決定的に事態を打開出来なかったのは、B-17を撃墜出来なかったからである。
日本海軍航空隊のエースパイロットであった坂井三郎中尉ですら、20機程度の僚機を引き連れてようやく倒せるかと言う程度の化け物であった。米国の戦闘機は約1トン位の爆弾が積めてしまうのに対して、日本陸軍の百式重爆でさえ、約800~1000㎏と、エンジンの性能差が物凄くあった。形振り構わず馬力のあるエンジンに固執する米国人の執念に日本人は勝てなかったのかもしれない。




