トルーマン(米国元大統領)宛電報
「例の"赤ん坊"が生まれた」
トルーマン(米国元大統領)
米国のトルーマン(元大統領)は、対日戦に決着を着けるべく、ある秘策を用意していた。その秘策が成功したとの報が、図らずもポツダム会談の直前に打ち出されたのである。
内容の電報には、このセリフがそのまま書かれていた。マンハッタン計画…。原子爆弾の実験に成功したとの報であった。トルーマンはチャーチルだけを呼び、その事を知らせている。二人は話し合い、「これでソ連の力を借りる必要が無くなった。戦後の事を考え、ソ連に戦線参加から外れて貰おう。」と、決めた。ところが、まさにトルーマンとの密約が出来たその時、チャーチルは本国から思わぬ報告を受ける事になる。
英国で、行われていた総選挙でチャーチルが党首を務める保守党が、労働党に敗北して政権の座を降りる事になったのである。その時点でチャーチルはポツダム会談の半ばでポツダムを後にする。代わって労働党の党首アトリーが加わる事になった。
そして1945年7月26日「ポツダム宣言」13項目が発せられている。「軍国主義勢力の一掃」、「占領軍の駐留」、「朝鮮の独立」、「かつての中国領土だった地域の返還」、「日本軍の無条件降伏」、「軍隊の武装解除と復員」、「戦争犯罪人の処罰」、「民主主義の確立」、「軍需産業の排除」…等etc.
これらを全て無条件で受け入れれば、日本に戦争を終結する機会を与える…と。宣言の署名には米国トルーマン、英国チャーチル、そしてその場にはいなかったが、中国国民党首蒋介石が、名を連ねた。ソ連はまだ参戦していないので、署名には名を連ねる訳にはいかなかった。
宣言は米国の「サンフランシスコ放送」を通じて日本にも流された。普段米国は、日本の通信を邪魔する為に妨害電波を出している。だが、この時だけは妨害電波を止めて、クリアな音声の放送を流した。日本が間違いなくこれを聞きどう応じて来るかを、確かめる為であった。日本時間7月27日には、日本側に放送が届いている。大本営側は、断固拒否すべきと執拗に主張した。




