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名ゼリフから読み解く 大東亜・太平洋戦争  作者: 佐久間五十六


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インパール作戦生存兵士

 「あんな軍人が畳の上で死んだ事は許されない。」 インパール作戦生存兵士

 作戦計画の段階で、参加すると決められた3つの師団長は、猛反対する。3人の師団長とは、第31師団の佐藤幸徳、第15師団の山内正文、第33師団の柳田元三である。

 短絡的な牟田口に対して、3人とも理性的な判断の下せる指導者達であった。本来なら中央の要職にあって、軍政・軍令を担うべき人材であったが、インパール作戦は陸軍の名誉が掛かっているとして、参加が決まった。

 結局、目的地につくまでに多数の死者を出したが、何とか予定の期日迄に3個師団ともインパール近くに集結した。いざ戦闘が始まると、激烈を極めた。日本軍は攻め入り、一時はインパールを半ば孤立させる迄に至った。

 しかし、戦闘が2、3週間続くと、補給がない日本軍は、食糧も弾薬も尽きていく。次第に戦局は英国軍に押され始めて行く。英国は専ら空から日本軍を攻撃してきた。作戦展開中、牟田口は前線から400㎞も離れたメイミョウと言う場所からひたすら前進あるのみと、命令を下していた。

 メイミョウは「ビルマの軽井沢」と言われた避暑地であった。佐藤幸徳の第31師団が痺れをきらして勝手に撤退すると、佐藤幸徳はその場で抗命罪に問われてしまう。戦線の一角が崩れ、残された日本軍の戦況はますます悪化した。そんな中で牟田口に批判的だった、他の二人の師団長(柳田・山内)も解任されてしまう。こうなると、もう闘える状況ではない。食糧も水も無い。挙げ句の果てにインドは雨季を迎えていた。

 部隊内部では、マラリアや赤痢が蔓延した。撤退する日本軍の兵士達は、うめき声を上げながら次々に死んでいったと言う。そして、ようやく撤退命令が出たのは、7月5日の事であった。インパールからビルマへ向かう街道には餓死した日本兵の死体が延々と並んだ。その街道は"白骨街道"と呼ばれた。この作戦で5万人の将兵が戦死したと言われる。一説によれば7万人の死者が出たとも言われるが、正式な死者数は今も分かっていない。

 それほどの大敗をした戦だから生き残った兵士が、牟田口に対してこの様なセリフの感情を持つのは、当然の事であった。

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