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名ゼリフから読み解く 大東亜・太平洋戦争  作者: 佐久間五十六


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牟田口廉也

 「支那事変はわしの第一発で始まった。だから大東亜戦争は、わしがかたをつけなければならん。」 牟田口廉也

 インパール作戦を立案した愚将で知られる彼であるが、実は泥沼の日中戦争のきっかけとなった、"廬溝橋事件"で事件を起こした部隊の連隊長であり、このセリフが彼の口癖であった。

 さて、太平洋上では、「飛び石作戦」により、日本の制海権は次第に狭められつつあったが、アジアの内陸部では、未だ膠着状態が保たれていた。また、中国大陸でも日本軍は、蒋介石率いる抗日部隊と、相変わらず戦火を交えていた。

 その蒋介石へ軍事物資を援助する米英の動きも命脈を保っていた。そもそもが、日本は太平洋戦争を始める理由となった一つの原因は、この「援蒋ライン」を切断するのが、目的だった。ビルマは、そのルート上にあった。牟田口は、この「援蒋ライン」を絶つため、ビルマの国境線の向こう国境沿いの山脈を越えたインド領インパールにある英国軍の基地を攻撃する事を決める。

 作戦の決行は1944年3月。牟田口の率いる第15軍の3個師団の参加が決まった。3個師団は、それぞれ、3つのコースに別れて、100㎞程の道のりを3週間で走破して、決められた期日迄にインパール近くに結集して、攻撃を加えると、された。

 しかし、この計画はどう考えても、無謀なものであった。地図上では、確かにビルマからインパール迄は100㎞程である。この程度の行軍なら2、3週間と言わず1週間もあれば走破出来る。だが、インパールに至るまでには、3000m級のアラカン山脈や川幅600m水深3mもあるチンドウィンと言う大河が横たわりその他、沼地や渓谷が待ち構えていた。

 しかもこの様なコースでは補給はほぼ無理である。「各自が食糧の半を背負い、後は牛や馬に運ばせる。」と言う稚拙な計画であった。これは、ジンギスカン戦法と呼ばれたが、本来それだけのリスクをかけて行うべき意味のある作戦とは到底思えなかった。

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