戦陣訓
「生きて虜囚の辱しめを受けず、死して罪禍の汚名を残す事勿れ。」 戦陣訓
昭和16年1月、東条英機陸軍大臣名義で、日本陸軍全軍に示達された。中国大陸での軍規の乱れに手を焼いた、陸軍首脳が綱紀粛正の為に、島崎藤村や土井晩翠等の意見を元に作ったものだが、このセリフの文章が、捕虜になる事を禁じた事実上の規定路線となっていく。
日本の軍隊で大きく欠けていたのが、捕虜となっても教育や人間の尊厳や、最低限の衣食住は保証されると言う事である。戦陣訓のようなものが流布されてしまうと、捕虜になった場合の対応を教育出来ない。その為、日本兵は捕虜になると米国よりは少ないが、よくしゃべった様である。
戦時国際法では、「名前と兵籍番号以外は話さなくて良い。」と言う項目があるが、日本軍兵士は、そんな事はお構い無く捕まったら"死ね"と教わっていた。
米国兵士の場合は、捕虜になった場合に、「ここまでは喋って良い。」とか、「ここから先は話すな。」と言った二段階教育を施していた。と言う話もある。いかなる時も「捕虜になってはいけない。」と言う根本教育がなされていた日本軍兵士達は"戦時ルール"と言うものを全く知らなかった。一兵卒は勿論の事陸軍士官学校や海軍兵学校でも、教えられる事は無かった。
第一次世界大戦前から、オランダのハーグで決められていた「戦時国際法」では、きちんと「捕虜の扱い」について、明記している。「捕虜には食事を出さねばならない。作業を課しても良いか、その作業が祖国の為にならぬ時は、拒否する権利もある。」と言う様な内容が書かれている。その他にも多くの国際法規があるのだが、20世紀の戦争は、一定のルールの元で戦うのが約束であった。
にも関わらず日本軍は戦時ルールを無視した。毛頭にも無かった。だから米国兵士が捕虜になった時は拷問でなぶり殺してしまうケースもあった。同じ発想から"玉砕"も行われる。まるでこの言葉には、"潔さ"の美学さえ感じる。しかし、そこには知性も理性も国際的な常識を知らない、あるのは"自己陶酔"だけなのである。




