近衛文麿
「軍人は、そんなに戦争が好きならば、勝手にすれば良い」
近衛文麿(元首相)
昭和16年10月4日の「大本営政府連絡会議」にて、東条英機に詰め寄られて恫喝するように、「人間一度は清水の舞台から飛び降りる様な覚悟も必要」と言われた事に対してカッとなった近衛文麿が投げやりに放った捨て台詞である。
近衛文麿の力量では、最早状況を収拾する限界を超えていて、実際に近衛文麿は、このセリフを放った12日後に無責任にも内閣総理大臣を辞職している。皮肉にも、その後継首相に収まったのは、陸軍大将であり、陸軍大臣であった東条英機であった。
国際社会には、「一番の主戦論者が首相に就き日本はこれで完全な"開戦準備態勢"に入った。」と、衝撃が走ったと言う。その証拠に米国海軍は、太平洋艦隊に対していつでも出動出来る準備を整える様命令を下している。
しかし、国際的な世論の危惧に反して、東条英機は事を荒立てる様子は全く無かった。近衛文麿の後継者選びを巡っては、内大臣の木戸幸一が裏で糸を引いていた。木戸幸一と言う男は、言わば昭和天皇の相談役とも言える側近と言う立場の男である。木戸幸一は、昭和天皇の意を汲み9月6日の御前会議で決まった事を白紙還元出来る様な内閣を作らねばならないと、考えた。
そこで一つの賭けに出た。一番の強硬論者である、東条英機を内閣総理大臣に据える事であった。東条英機は、とにかく昭和天皇への忠誠心に篤い男であった。それをあえて利用しようとしたのである。
木戸幸一の報告を受けた昭和天皇は、この時木戸幸一にこう語ったと言う。
「虎穴に入らずんば虎児を得ずだね。」
事実、東条英機は木戸幸一に「陛下は9月6日の御前会議の議決を白紙還元する事を望んでおられる。もう一度、どんな可能性があるか、探ってもらいたい。それが陛下の意志である。」と、告げられると、その言う通りに白紙還元の方向で調整されていく。国際情勢が緊迫の度を増して行く中で、日本の内政もゴタゴタしていた事は、確かである。
それでも、内閣を簡単に投げ出すような近衛文麿は、名宰相では無かった事は、確かである。後を継いだ東条英機は、最終的にA級戦犯として、連合国に処刑されるが、それは歴史の必然だったのかもしれない。




