明治天皇
「四方の海、みなはらからと思ふ世になど、波風の立ちさわぐらむ」
明治天皇
既に押さえている北部仏印から更に部隊を南下させようとする。それが「南進」であった。その対極にあたる「北進」とは、対ソ連戦を意味した。
「独ソ不可侵条約」を結んでいた独が約束を破りソ連に侵攻した事により、「三国同盟」を結んでいた日本は、今こそ独に呼応して、東からソ連に侵攻するのではないかと、主張した。
「北進」は主に陸軍が、「南進」は海軍が主張した。結局、「南進」の方向に舵を切り南部仏印に昭和10年7月28日に進駐した。そこで日本は石油等の資源を手に入れる事が出来たのだが、その分手痛いしっぺ返しを食らう事になる。
「日本の南部仏印進駐を許さない。」と、米国が「在米日本資産の凍結」と、「石油の対日輸出全面禁止」を通告してきた。
米国で日米交渉を続ける野村吉三郎駐米大使に以後、米国国務長官ハルは、徹底的に厳しい条件をつける。「日本軍の仏印からの撤退」及び「三国同盟からの離脱」及び「中国から撤兵し、蒋介石政府を認める事。」この3条件をハルは一貫して主張した。
だが、日本にとってはどれも飲めない条件だった。昭和10年9月3日、「大本営政府連絡会議」において、3つの国策が決定される。「米英に対して戦争準備を行う。」、「それと同時進行で、あくまで日米交渉を続ける。」、「10月上旬まで交渉を続けても、交渉の成果が表れなければ、米英に対して武力発動を辞せざる。」
9月6日にもこの議決は行われているが、昭和天皇はこの報告を聞き驚く事になる。無論、昭和天皇にしてみれば、「戦争を辞せざる」事態など持ってのほかと思っていたに違いない。この時昭和天皇は、自らの意思を発する事は、無かったものの、懐から一枚の紙を取り出し、それを読み出した。その紙に書かれていたのが明治天皇のこの名セリフの歌であった。
出来れば外交交渉で解決し、和平案を以て収束させて欲しい。その意味を込めた精一杯の意思表示だった。だが、昭和天皇の思いとは裏腹に、日米交渉は一向に好転しないまま、時計の針だけが進んでいった。駐米大使野村吉三郎も、何とか妥協案の糸口を見つけようとしたが、米国国務長官ハルに譲歩の余地はまるでなかった。明治天皇の御言葉を借りても、戦争への道を止める事は、出来なかった。




