表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
名ゼリフから読み解く 大東亜・太平洋戦争  作者: 佐久間五十六


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/120

明治天皇

 「四方(よも)の海、みなはらからと思ふ世になど、波風の立ちさわぐらむ」

 明治天皇

 既に押さえている北部仏印から更に部隊を南下させようとする。それが「南進」であった。その対極にあたる「北進」とは、対ソ連戦を意味した。

 「独ソ不可侵条約」を結んでいた独が約束を破りソ連に侵攻した事により、「三国同盟」を結んでいた日本は、今こそ独に呼応して、東からソ連に侵攻するのではないかと、主張した。

 「北進」は主に陸軍が、「南進」は海軍が主張した。結局、「南進」の方向に舵を切り南部仏印に昭和10年7月28日に進駐した。そこで日本は石油等の資源を手に入れる事が出来たのだが、その分手痛いしっぺ返しを食らう事になる。

 「日本の南部仏印進駐を許さない。」と、米国が「在米日本資産の凍結」と、「石油の対日輸出全面禁止」を通告してきた。

 米国で日米交渉を続ける野村吉三郎駐米大使に以後、米国国務長官ハルは、徹底的に厳しい条件をつける。「日本軍の仏印からの撤退」及び「三国同盟からの離脱」及び「中国から撤兵し、蒋介石政府を認める事。」この3条件をハルは一貫して主張した。

 だが、日本にとってはどれも飲めない条件だった。昭和10年9月3日、「大本営政府連絡会議」において、3つの国策が決定される。「米英に対して戦争準備を行う。」、「それと同時進行で、あくまで日米交渉を続ける。」、「10月上旬まで交渉を続けても、交渉の成果が表れなければ、米英に対して武力発動を辞せざる。」

 9月6日にもこの議決は行われているが、昭和天皇はこの報告を聞き驚く事になる。無論、昭和天皇にしてみれば、「戦争を辞せざる」事態など持ってのほかと思っていたに違いない。この時昭和天皇は、自らの意思を発する事は、無かったものの、懐から一枚の紙を取り出し、それを読み出した。その紙に書かれていたのが明治天皇のこの名セリフの歌であった。

 出来れば外交交渉で解決し、和平案を以て収束させて欲しい。その意味を込めた精一杯の意思表示だった。だが、昭和天皇の思いとは裏腹に、日米交渉は一向に好転しないまま、時計の針だけが進んでいった。駐米大使野村吉三郎も、何とか妥協案の糸口を見つけようとしたが、米国国務長官ハルに譲歩の余地はまるでなかった。明治天皇の御言葉を借りても、戦争への道を止める事は、出来なかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ