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名ゼリフから読み解く 大東亜・太平洋戦争  作者: 佐久間五十六


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日本陸軍・外務省

 「バスに乗り遅れるな!」

 帝国陸軍・外務省

 国際連盟を脱退して以降、日本は国際社会の中で完全に孤立化していた。その時に手を差し伸べてきた国があった。アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツである。ソ連を牽制する意味から、昭和11年日独防共協定を締結。ところがドイツは、そのソ連と不可侵条約を結び、その一週間後の1939年(昭和14年)9月1日には、ポーランドに侵攻。第二次世界大戦が勃発する。

 日本は体よくナチス・ドイツに振り回された形となった。イタリアも交えた「三国同盟」によって、反米英の姿勢と枢軸国への全面的な加担を明確にする事になった。

 なぜ日本はドイツと手を結ばなければならなかったのか?それは、泥沼化していた日中戦争にその遠因がある。南京、徐州、武漢といくら大都市を叩こうと、一向に埒のあかない戦局に日本国中が疲弊感を募らされていた。軍部の指導者達はその理由を考えた。

 そして、出た結論が「援蒋ライン」という考え方であった。つまり蒋介石政府がギブアップしないのは、裏で米英が軍事物資の援助をしている「援蒋ライン」が存在する事を突き止めた。誰もが批難の矛先を求めていた。

 そんな中で日本は「蒋介石政府を打倒するには米英が行っている"援助のライン"を絶たなければならない。悪いのは米英である。」と、巧みに世論を導いて行ったのである。すると反米英の世論が急速に日本国民に浸透していく。同年9月に日本が北部仏印に進駐したのも、この「援蒋ライン」を絶つためであった。

 欧州で、英国相手に快進撃を続けていたドイツと手を組むのは、最早規定路線だった。昭和15年の夏頃から、このセリフのようなお題目が陸軍内部や、外務省のあちこちで、聞かれる様になる。無論、「三国同盟」の締結に当たっては前首相で海軍大将の米内光政、海軍次官から連合艦隊司令長官になった山本五十六、海軍軍務局長であった井上成美の様に「三国同盟」に反対する良識派の海軍軍人もいたが、それは少数派であった。日本を取り巻く"時代の雰囲気"がそれを許さなかった。バスがあらぬ方向へ進んでいるとも知らずに。

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