三十話「東の京」
人の兵は歩む、倶に天を戴くことのない、討つべき存在へ向けて。妖どもは行く、部外者として、世の均衡を保つため。魔物は迎える、今までにない、未曾有の大軍隊から自らを守るため。高天に住む天津神は何を思うだろうか、いずれの日にか滅びぬ形あるものどもの最後はどのような有様であろうか――
「――ここが江戸かぁ。京と比べて明らかに活気があるな……。二階のある家も京よりも圧倒的に多いし……」
三柱は人と魔族の戦線から一歩退いた位置にある土地、江戸へとやってきていた。河童たちはここで人の軍が来るのを待って破壊工作をする予定である。早めに来て息抜きをしておこうって事らしい。
「当たり前だ、ここは娯楽と自由の街だからな。目ざとい商人が前線の武士や役人に不足しがちな物資や、娯楽を提供していたのがこの街の始まりだ。」
「江戸ができた辺りから貨幣の存在価値が大きくなりましたね。それ以前は専ら米が主流だったものですね。」
「まあ、私等の存在を信じてさえくれれば人間の形がどう変わろうが知ったことじゃないがね。」
「幸い京の軍は動いておらず、情報も天狗に任せれる、私等はゆっくりと羽を伸ばせるって訳よ。まあ、私等は神だから羽を伸ばすといっても此処にある店に入る訳にはいかないんだがな。」
「えっ……?」
その言葉を聞いて薬師が発した言葉は残念さと悲しさに溢れていた。
「当然だろう、京でも似たようなこと言ったような気がするが?」
「……確かに神としてそうそう簡単に人前には顔を出せないって言ってたような……。」
「正確には人前に顔を出すと言うか、神と認識される事を簡単にするのが不味いって事ですね。現にこうやって人でごった返しているこの街を歩いているわけですし。」
「成程。まあ、それは納得したとして、どこで羽を伸ばせって言うんだ?」
「そりゃ、隠れ里だろ。」
そうして吞乃達は橋の下の土手へと降りた。
「タチガミ、頼んだぞ。」
「はい。」
吞乃の言葉に呼応したタチガミは錫杖を地面に突き立て、地面に巨大な結界を貼った。本来この規模の大きさの結界を貼ろうものなら騒ぎになるはずだが、土を踏みしめることで精一杯なのか、こちらを見ることもなく江戸の人々は行き交っていた。
「縁切りと境界の調整ご苦労様。」
吞乃がタチガミの肩を叩き労う。見た感じタチガミは大して疲れている様子はない。
「……今のは?」
「周りの人間に見られないように縁を切る結界と隠れ里の入り口を持ってくる結界を同時に張ったのさ、タチガミは涼しい顔してやってるが、中々の荒業だな。」
呆気にとられている薬師の疑問に吞乃が答えた。
「私だって相当疲れますけどね、これすると。」
「疲れた者の顔には見えんがな。」
目元こそ見えないものの余りに涼しいタチガミ口元に吞乃が苦言を呈する。
「そんな事はどうでもいいんだがな。それじゃあお前ら、行くぞ!」
そう言った吞乃は二柱を掴んで川の中へと飛び込んだ。するとどうだろう、体に纏わりついてきた感覚の中には水は存在しておらず、落下時の風を切るときのそれだけであり、先まで昼だったはずの開けた目の前に現れたのは、江戸の街に負けず劣らずの活気を持つ、神と妖たちの常夜の楽園だった。とても楽しそうだと薬師は心躍った。――ただ
街道の一つ一つが葉脈のごとく小さく見える事、その一点を除いては。
「ちょ……落ちてる!落ちてるって!大丈夫なのこれ!」
「大丈夫ですよ、落下の衝撃を抑える結界が貼ってあるので。」
「まあ、そんな騒ぐ必要は無いさね。」
「噓でしょ!怖くて怖くてたまらんわ!」
しかし、薬師の恐怖と裏腹に着地は静かなものであり、落ちた先の入り口で、受付の女天狗が言葉を発した。
「ようこそ!停滞と温もりの街に!」