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愛しのシェパード

▼クレヅヒェルトへの往路でのとある出来事。


 クレヅヒェルト行きの特別列車はつつがなく線路を進む。予定通りなら明日、遅くとも明後日には国境を越えるところまで来ていた。

 恒例となったエルグニヴァルとの食事を終えて車内の見回りに出ていたハノーニアは、ふと列車の速度が落ちていくことに気がついた。


「何事?」


 思わずつぶやいたハノーニアは、ひとまず先頭車両へと向かう。通路を小走りで行けば、進行方向から同じく小走りにやってくる同僚から声をかけられた。


「ノイゼンヴェール中尉! 良かった、探す手間が省けた」

「アンハイサー少尉」


 前からやって来たのは顔見知りで同期のニクラス・アンハイサー少尉だった。

 アンハイサーはどことなく嬉しそうな――楽しそうな表情をしていて、その顔からとりあえず一大事ではなさそうだとハノーニアは足の速度を落として彼と相対する。


「少尉。何があった。此処で減速する予定などなかっただろう? これじゃあじきに止まるんじゃないか」


 ハノーニアの言葉が終わって間もなく、列車はついに停車した。


「………。襲撃じゃないんだよな」

「はい。………正直に申し上げれば、襲撃の方が楽であったかもしれません」

「おい。冗談でも言うな」

「申し訳ありません!」


 ハノーニアが睨み付ければ、アンハイサーは背筋を伸ばして敬礼を返した。

 深呼吸を一つ挟んで、ハノーニアは改めて現状の報告を求めた。


「見張りが前方に羊の群れを発見しました。線路にみっちりと、どっしりと居座っているようで…」

「……あぁ神様」


 ハノーニアは制帽を押さえて天井を仰いだ。報告したアンハイサーも大きく肩を竦めている。

 整備が進む帝国だが、やはり広大な領土の隅々までそれを行き渡らせるのは困難だ。これが共和国等の別の国境沿いならそんな悠長なことは言っていられないし、最優先で事業が進められる。しかし、このクレヅヒェルトとの国境線は未だのどかな過疎地域が広がっているのだ。放牧も当然行われていて、線路に家畜が迷い込むという事はよくある。対策も勿論行われているが、生き物相手に限界もある。

 分かっている。分かっていた。だが、何も今この時、この特別列車の運行時に遭遇しなくたっていいだろう。

 顔を正面に戻したハノーニアは、アンハイサーに確認する。


「…羊か、間違いなく。まんまるに肥えたヤギとかではなく」

「羊です。間違いなく」


 頷き返したアンハイサーと共に、ハノーニアは大きく溜息を吐いた。

 いくら軍と言えど、国民のものを勝手に如何こうしていい訳もない。特例はあるにはあるが。加えて、今回は羊と来た。


「…始まりの星座、白羊宮…」


 これは帝国に限ったことではないが、星座にまつわる動植物へは一定の敬意を払う。敬意を払い扱った上で、時に殺し、時に皮をはぎ、時に乳をもらい、時に肉を食う。

 そんな生き物の中で、帝国において特に尊ばれているのが始まりの星座である白羊宮。つまり、今現在進路にどっしり居座っていると報告された羊だ。


「管理者は何処のどいつだ。厳重注意は免れないだろうし、それで済めばいいが…」

「今確認しているとこです。程なく判明するかと」


 突っ立っていても事態は収拾しない。ハノーニアはアンハイサーと共に再び先頭車両へ向けて急いだ。

 途中の留学生組の乗る客車を通り過ぎる際には、部屋から顔を覗かせて状況を伺う者たちの中にリートミュラーら仲良し三人組を見かけた。


「! ノイゼンヴェール中尉!

 何事でしょうか…」

「襲撃じゃあない。安心しなさい。

 なんでも、付近で放牧されている羊の群れが線路上に確認されたようだ」


 ついついリートミュラーの頭をポンと撫でて、ハノーニアはその脇をすり抜けていく。


「中尉! あ、お、お気を付けて!!」

「あぁ。頭突きされないよう注意する。んでもって、丁重におかえり願ってくるよ」

「はい! 成功とご無事を心から祈っています!!」


 前を向いたまま手を振って、ハノーニアは客車を後にする。


「…相変わらずの人気だな。ハノーニア」

「…仕事中だぞ、ニクラス。

 ……まぁ、悪い気はしないよ。可愛いっていうのかな」


 こそっと耳打ちされたおしゃべりに釘をさしつつ、ハノーニアはアンハイサーに肩を竦めて笑みを零した。


「いい意味なんだが…それ、本人にはっていうか、男には言ってやるなよ。くれぐれも。頼むから」

「了解。……そんなに衝撃的?」

「あぁ」


 頷くアンハイサーがあんまりにも真剣な顔と声だったので、ハノーニアはもう一度「了解」と頷いてみせた。


(……閣下にも、言わないでおこう…)


 プカリと浮かんできた思いに、ハッとしたハノーニアが内心慌てふためいている内に、先頭車両へと到着した。窓の外からは、覗くまでもなく羊の声が聞こえてくる。


「……わぁ。いっぱいいるぅ」


 鳴き声に誘われる形で、半ば恐いもの見たさも相まって窓から身を乗り出したハノーニアは、進行方向から溢れかえるもっこもこの群体に渇いた笑いが零れるのを耐えられなかった。


「……中隊規模?」

「ぐらいはいるよなぁ」


 顔を見合わせた二人は、大きく肩を竦める。そして、昇降口から地面へと降り立った。先に到着して移動作業に取り掛かっていた軍人たちと敬礼を交わし、手短に作戦を確認した。

 とはいえ、作戦などあってないようなもの。とにかく線路上から退いてもらわねばならない。


「…あぁ、ルドルフやアドルフィーナがいてくれたらなぁ」


 めぇめぇと賑やかな羊の群れを見つめながら、ハノーニアは恋しさから呟いた。どちらも帝国軍が有する優秀な軍用犬の名前だ。夫婦である二匹は子どもも何度か産んでおり、ハノーニアはよちよち歩きの子犬たちにメロメロになることもしばしばあった。


「中尉は懐かれていますもんね」

「嬉しい限りだ」


 そう言って頷くハノーニアは本当に嬉しそうで、アンハイサーも釣られて笑みが零れた。ただし、それが隙になったようで近くにいた羊から頭突きをくらってしまう。


「ぐッ」

「少尉!?」


 鍛えている軍人であってもよろめく衝撃だ。万が一、何かの拍子で列車に突撃されたらなんて恐ろしい予想が脳裏を過って、ハノーニアは咄嗟に受け止めたアンハイサーを支えながら一旦群れから距離を取る。そこへ小走りに寄って来たのは、これまた顔見知りの軍人だ。


「こんな毛塗れのところでいちゃつくなよ、お二人さん」

「うるさいぞベルツ少尉」

「へいへい、悪かったな。羨ましくってつい、アンハイサー少尉」


 ムッとしながらも体勢を整えたアンハイサーを見て二ッと笑うオリヴァー・ベルツは、そうしてハノーニアへ向き直ったかと思うと声を潜めて一つの提案をしてきた。


「…なぁ、ハノーニア。あれやってくれよ」

「おい、職務中だぞベルツ少尉」

「めぇめぇ賑やかで誰も聞いちゃいねぇよ」

「…あれ、とは?」


 話を振られたハノーニアはしかし、ベルツが指す『あれ』が何なのか、皆目見当もつかないでいた。

 首を傾げたハノーニアに、ベルツがまた笑みを零す。とても楽しげで面白そうなその表情に見覚えがあって、そう言えば合流した時のアンハイサーも似たような顔をしていたと気が付く。


「憶えてねぇか? ほら、前に課外の慈善活動の一環で牧場の手伝いに行った時。

 お前、牧羊犬たち差し置いて羊操ってただろ?」

「………。……そんな人間離れしたこと、やらかした憶えはないなぁ」

「目ぇ泳いでんぞ。

 ニクラスもそれ目当てでハノーニアのこと探してたんだろう」

「…まぁ。伝説だしな」

「伝説ぅ!?」


 目を見開いたハノーニアは両の米神を親指で押しながら唸る。


「私、そんなつもりでやった訳じゃないよ…。…そりゃあ、あの子たち――牧羊犬たちと仲良くなりたくって一緒に駆けまわってたけど。ちゃんと休憩時間に」

「休憩しろよ。な、そこは。だから余計にオオカミ犬なんて言われるんだぞ」


 ベルツから生温かい視線を受けたハノーニアは堪らずにそっぽを向いたが、向いた先で同じく生温かく微笑むアンハイサーと視線が合い、俯くしかなかった。


「……あれは、だからやっぱり牧羊犬たちがいたからで。その威を借りてただけだ」

「まぁそうかもしれねぇ。だが、試してみる価値はあるだろう?」

「そうしかない。試す価値なんてない。ある訳ない」

「しかし、移動はなかなか進んでいない。管理者が付近にいないか、航空魔導師が捜索に出て行ったが…。…それを待つのも勿論だが、燃料と時間の無駄は極力抑えるべきだろう」

「そりゃあごもっともだ。

 …だがな。こんな大勢の目の前で恥をさらせと?

 確かにあの課外活動では偶然、牧羊犬たちの力を借りてその真似事が出来た…いや、出来たように見えた。見ていたのはお前たちをはじめとする同期諸君のみ。笑い話に出来る間柄だ。

 冷静になってくれ。佐官は勿論、将官…准将だって同乗しているんだ。お耳に入ったら、私はどうなる? これでも護衛官の末席を賜ったんだぞ。しかもついこの間。……嗚呼、短い春だった」

「よっ我らの出世頭。そんなに悲観するなよ。短い旅路じゃないんだ。准将閣下方にも笑える話の一つや二つくらい必要だろう」

「…オリヴァー・ベルツ少尉。貴様、私のことが嫌いだろう」

「まっさか! 正式に求婚しておかなかったことを心の底から悔いてるぐらいには好きだ。だがまぁ…総統閣下の『御気に入り』に手を出すほど馬鹿にもなれない。ごくごくありふれた帝国軍人だよ」

「貴族が抜けていらっしゃるぞ、ベルツ少尉」

「嫡男じゃねぇからな。関係ないねぇ」


 男同士のやり取りをげんなりと見守っていたハノーニアは、不意に上着の裾をクイクイと引っ張られる感触に驚いて下を見る。案の定、そこには羊が迫って来ていた。他の羊より一回り程大きいその個体は、穏やかそうな眼差しでハノーニアを見上げてくる。


「おぉ、流石羊飼いノイゼンヴェール中尉」

「お黙りあそばせベルツ少尉」

「御意」


 胸に手を当てて一礼するその姿は様になっていて、ハノーニアは溜息を零す。

 もう一度、傍で大人しくしている羊を見下ろせば柔らかい眼差しと視線が合う。


「……顔から出た火で焼け死んだら、責任もって骨は拾ってくれ」

「そんな約束よりも、小官に要求する見返りを考えた方が建設的だろう?

 チョコレートでも焼き菓子でも、中尉のお好きなもの、取り寄せてみせましょう」

「特権乱用は感心しないな、ベルツ少尉。

 だがまぁ、そうだな。おいしいものは生きて食べてこそ。ふはははは、たっぷり請求してやる。傷心をいやすのにも付き合いたまえよ、少尉たち」

「喜んで」

「勿論であります」


 こうなれば自棄である。不貞腐れた顔で列車の前――そこにどっしりと腰を据えている群れの大半へ向かって力強く歩き出したハノーニアの横に、あのひと際大きい個体が付き従う。

 それを見て、ベルツとアンハイサーは顔を見合わせた後、同じように後に続いた。

 ハノーニアが一歩一歩進むたび、自由気ままに彼方此方を向いていた羊たちの視線が彼女へと集中していく。丁寧に、しかしどうしても力任せに移動を試みていた軍人たちも釣られて顔を向けた。

 女性としては体格に恵まれたハノーニアが、胸を張り、顔を真っすぐ上げて歩く姿は、とても映える。中性的を通り越して性別不明と名高い容姿は無機質な印象を与えがちだが、ついてくる羊たちへ時折微笑む光景はなんとも温かみにあふれていて。感嘆の溜息を零した者は一人や二人ではなかった。


「……さあ、さて」


 羊の群体の最前に立ったハノーニアは、そこで一つ笑って見せた。

 琥珀色の目を鋭く細め、白く磨かれた歯を見せて、彼女は言う。


「退いてくださる? 白羊宮の皆さま。

 確かに、この列車には白羊宮の閣下がご乗車なさっている。御目文字を願うのは当然の気持ち。…しかしながら、それで閣下のお手を煩わせてしまうのはいかがなものか。

 さて、道を開けてもらう。お帰り願おう。さもなくば…片っ端から取って食らうぞ」


 張り上げたわけでもないのに、声が響いた。そして、沈黙が降りる。「めぇ」とひと鳴きさえ聞こえない。


(…ほら、言わんこっちゃない)


 ハノーニアが諦めの笑みを零した瞬間だ。

 今まで梃子でも動かぬ様子だった羊たちが、一斉に移動を開始した。行軍さながらの隊列で、しかしながら我先にと線路から飛び退いて去って行く。

 地響きと幾らかの土煙を残して行ってしまった羊たちを、ハノーニアは勿論、作業に当たっていた軍人一同が目を見張って見送った。

 一人、二人と軍人たちが羊からハノーニアへ視線を戻し始める。それに伴い、どこからともなく拍手が始まって、ついには割れんばかりの勢いとなる。


「マジかよ」


 予期せぬ喝采に顔を引きつらせ固まるハノーニアは、ぽすんと柔らかい衝撃を側面に受けてハッとした。

 視線を向ければ、あの一回り大きな個体がまだ残っていた。

 ハノーニアはぱちくりと目を瞬いた後、柔らかく笑ってその顔を包み込むように撫でてやった。羊は嫌がるどろこか嬉しそうに顔を擦り付けてきて、そのことが尚更ハノーニアを破顔させる。


「ほら、お行き。でないと、宣言通り食べちゃうぞ」

「めぇ」


 放した手でもって体を押してやれば、羊は名残惜しそうに何度か足を止めては振り返りを繰り返した。


「お行きったら。次会ったら絶対食べるからな」

「めぇえ」


 最後にひと鳴きして、その羊も行ってしまった。

 もこもこの後姿を木立の向こうへ見送ってから、謎のさみしさと謎の達成感とを抱えたハノーニアは、さてどうしようと腰に手を当てて仁王立ちした。


「――ほらな!! やっぱりお前ってすげぇよハノーニア!!」

「ははは! どうだ! すごいだろう私は!! 報酬は弾めよベルツ少尉!! ケーキ1ホールぐらいじゃこの傷心は癒えないからなちくしょうめ!!」


 飛び付くように肩を組んできたベルツにハノーニアがそう噛み付けば、横からアンハイサーに背中を叩かれる。


「何かな!」

「周りをご覧ください。中尉」


 とっても素敵な笑顔のアンハイサーに促されて周囲を見渡したハノーニアは、やめときゃよかった!と内心で絶叫する。

 どの軍人兵士たちの視線もやたらと煌いていた。頬を高揚させている者だっている。「ヒェッ!」と情けない息がハノーニアの口から漏れたが、幸か不幸か、両隣の旧友たちに拾われることはなかった。


「いやすげぇ!! 俺たちはまた伝説の目撃者になった!! 祝杯だ!!」

「やめろ勿体ない!!」


 かくして、列車の旅は再開される。

 先頭車両での騒動は、瞬く間に車内を駆け巡った。しかしそれよりも早く、貴賓室で頬杖をついていたエルグニヴァルはフンと鼻を鳴らす。


「せいぜい広めておくのだな。あれが誰のものか。

 …嗚呼、わたしのハノーニア。わたしの狼。早く、早く…どうかわたしを一番に食べてくれ。でないと…嗚呼、他のすべての羊がどうなっても知らぬぞ」


 ゆっくりと組んでいた足を解いたエルグニヴァルは、近付いてくる一つの気配と足音に表情をうっとりと和らげたのだった。


ハノーニアの伝説。たぶんきっとまだある。

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