不可侵条約は本日も有効なり(シジルゼート)
またの名を【異種間交流に相席する】
整えられた芝は青々と輝き、あちこちで花が咲き乱れている。
それらを視界の端に映しながら、シジルゼートは「色鮮やかになったものだ」と内心感心する。
(主人が変わればその持ち物もおのずと…とは言うが。此処までとは。いやはや。これだから、恋も愛も恐ろしい)
恋を患った途端、エルグニヴァルは変わった。より正確に言うならば、変わろうともがき足掻いている最中なのだろう。
元々、この私邸は美しかった。庭も建物も、調度品も何もかも。完璧に美しかった。ただそこに生気が感じられたのかと聞かれれば、答えられるものはいただろうか。
完璧なまでに美しく整えられていたが、温かみなど微塵もなかった。主人たるエルグニヴァルを思えば、それは当然だった。かの人に、凡そ人間らしさなんてものはなかったのだから。
いっそ嫌悪さえ抱く整った容貌に、命を吹き込み血を通わせたのは、一人の娘だった。
「――こら。順番だって言ってるでしょうが」
聞こえてきた心地よい高さの声に、シジルゼートは零れるままに微笑みを浮かべ、広い庭――とは言え、端が遠くに目視できるのでエルグニヴァルの私邸の中では小さい部類に入る――の一角へと足を向ける。
そこでは、枝を広げ葉を茂らせる大樹の根元に胡坐をかいた一人が、数頭の犬に囲まれている。どうやら訓練は一休みのようで、今は乱れた毛並みを順にブラッシングしている最中らしい。
個体差はあるが一様に大型なその犬たちは、この私邸の警備の一端を担う軍用犬たちに他ならない。どれもが優秀で、且つ獰猛さを兼ね備えている。軍人兵士であっても気圧される者はいるだろう。
それが、どうだ。
「今はフォルカーの番。次がマルティン、ランベルト。イェルン、君はその次だ。もう少し待ってなさい」
木漏れ日を受けて煌く明るい灰髪を揺らしながら、胡坐をかいた人物――ハノーニア・ノイゼンヴェールは淡い琥珀色の目を柔らかく細めてとある一頭――イェルンを注意する。しかしイェルンは、ノイゼンヴェールの左腕と左脇の間に差し込んでいた顔を引き抜くことはしない。それどころかノイゼンヴェールの脇腹をツンツンと鼻先でつついた。ので、すかさずノイゼンヴェールの制裁が下る。キュッと絶妙な力加減で腕を閉じ、脇腹との間でイェルンを挟んだのだ。
イェルンは一瞬固まると、グッと踏ん張って素早くその拘束から抜け出した。フンッ!と鳴らされた抗議の鼻息に、ノイゼンヴェールは肩を竦めるだけ。他の軍用犬たちに至っては「お前が悪いんだろう」という表情を隠さない。
「やぁ、御機嫌ようノイゼンヴェール嬢。今日もお見事ですね」
「シジルゼート少将」
立ち上がりかけたノイゼンヴェールを「そのままで」と手を挙げて制し、シジルゼートは残りの距離を注意深く詰めた。
「今日は非番でしょう。どうか気楽に。
それで…お隣、少しよろしいですかな?」
「は、はい。どうぞ」
ノイゼンヴェールとしては「休みだろうが上司は上司、上官は上官」と緊張はあったが、元より此処はエルグニヴァルの私邸。主人たるエルグニヴァルの腹心であるシジルゼートが敷地内にいてもおかしいことはない。
許しを貰ったシジルゼートは、ノイゼンヴェールの隣に、彼女と同じよう芝生の上に腰を下ろす。ジィと幾つもの深い琥珀色や金色の目に見張られながら、少し近すぎたかとさりげなく距離を微調整した。
「相変わらず、よく懐かれておりますね」
「そうだと、嬉しいです。みんな、可愛いので」
ふにゃと破顔するノイゼンヴェールは、フォルカーが器用に前脚でもってブラシを持つ手をちょいちょいとかいてきたので、「失礼します」と断りを入れてブラッシングを再開した。
その手慣れた手つきを傍で見守りつつ、シジルゼートは内心で苦笑した。
(可愛い…ねぇ)
シジルゼートも、犬は嫌いではない。彼らが持つ忠誠心と高い知能はとても好ましい。
だが同時に、どうしたって拭えない本能的な恐怖とでも言えばいいのか。そう言ったものに苛まれるのは、正直に言えば遠慮したい。
普通の軍用犬には当然そんな事は感じないし思わない。むしろ軍用犬たちの方が、畏怖を持ってシジルゼートに付き従うだろう。つまり、この私邸にいる軍用犬――その中でも今この場に集まっているこの数頭は、普通ではないということだ。
彼らは狼の血を濃く深く継いでいる。それだけならまだいい。元をたどればあのクレヅヒェルトを原産地とする種だ。力の強さだけでなく、魔力の強さでも優劣をはかり順位をつける。特別な犬種で、クレヅヒェルトでも王族など特定の人物だけが持つ権利を有する。この帝国にも縁あって、皇族やそれに近しい高位貴族の手元にはいることにはいる。だが、当然輪をかけて希少だ。
そんな希少な狼犬たちを、エルグニヴァルはノイザ・ヴォルフォツェールづてに手に入れた。素早く、そして丁寧に。それはひとえに、ノイゼンヴェールの気を引くために。
しかしてそれは功を奏した。事前の念入りな調査で動物好きであることが分かっていたノイゼンヴェールは、一目で好きになった。彼女は足繫く軍用犬たちの犬舎に通い、担当の兵士たちと共に世話をした。一緒になって庭を縦横無尽に駆けまわる姿は、力強く、はつらつとしていて、つい微笑みが零れるものだ。
(まぁ、あの勢いに付いて行くことが出来る者がどれだけいるかは、置いておいて)
ノイゼンヴェール自身、外見的特徴などが突然変異というか隔世遺伝の『飛び血』であり、加えて魔力種が『狼犬』ということもあり、軍用犬たちとの相性は抜群にいい。取り寄せたエルグニヴァルがじっとりとした嫉妬の念が籠りにこもった視線を突き刺してくるくらいには。それを見たノイザ・ヴォルフォツェールが腹を抱えて爆笑したのは言うまでもない。もっと言えば、エルグニヴァルに指をさし、床に膝をついてもなお笑っていた。
「はい、フォルカー終わり。おーわーり。
マルティン、おいで」
ノイゼンヴェールは大きく筋肉質なフォルカーの胴体を撫で叩き、次のマルティンを呼び寄せる。
フォルカーはほんの少しごねた後、マルティンにせっつかれるようにして場所を譲った。ぐるりとシジルゼートの前を回り込み、ノイゼンヴェールの向こうまで歩いたフォルカーは、そこで休止の姿勢となった。
ンッフーゥと聞こえてくる鼻息というか溜息というか。フォルカーのそれを、マルティンのブラッシングに取り掛かったノイゼンヴェール越しに聞きながら、シジルゼートは苦笑するしかない。
(閣下よりも人間らしい…、なんて。おっと)
漏れてしまった笑いを、唇とそこに当てた拳でもみ消す。
気を取り直して、ノイゼンヴェールとその周りに集まる軍用犬たちを観察する。
ブラッシングをされている個体以外は、各自思い思いに過ごしている。適度な距離を置いているものもいれば、先ほどのイェルンのようにちょっかいを出そうとすきを窺っているものもいる。現に、イェルンは再び「かまって」とばかりにノイゼンヴェールへちょっかいをだした。今度は左肩に顎を乗せ、ぐいぐいグリグリと擦り付けている。ノイゼンヴェールがもう一度叱るのかと思いきや、横から来た別の個体にヴア!と吠えられた。そして、そのまま二頭のやり取りはじゃれ合いに発展し、木陰から弾丸のごとく飛び出していく。
日差しの中で尻を高く上げて止まる、そして走るというのを繰り返す二頭が、ヴア!やガア!!と言い合う声を背景に、シジルゼートは「まぁ確かになぁ」と内心で納得する。
(これを見れば、勘違いもするものか)
この納得は、もう何度となく味わっている。そしてきっとこの先も、何度となく再認識するのだろう。
(人に慣れている、従順だと勘違いして…その喉笛を噛み千切られる。まぁ、そんなおめでたい頭の持ち主たちだ。死んだことさえ気づかんのだろう)
この狼犬たちは特別製だ。ノイゼンヴェールと同様に、魔力を嗅ぎ分ける。魔導師になるだけの魔力量がない者は勿論、訓練に訓練を重ね、体外に滲む魔力を極小値にまで抑えた手練れであっても感知する。
その脚は強く、顎も強い。であれば、そこに生えている爪や牙が弱いなんてことはあり得ない。
勿論賢く行儀もよいので、勝手気ままに喰い散らかすということもしない。ちゃんと、主人の言いつけを守るのだ。
極々たまに、そうならない時もある。侵入者が主人やその番の悪口を吐いた時など、もう目も当てられない。いっそ砲撃でも直撃したほうが、きれいさっぱり、後片付けも楽だろうと不謹慎にも思ってしまうほど、凄惨たる光景が出来上がるのだ。
(こちらもちゃんと写真を撮って送ってやっているというのに。まったく、学びの無い奴らだこと。そんなことだから、閣下の愛想が尽きるのだ)
そもそも、エルグニヴァルに愛想云々そう言ったものはなかった。
この度恋を患ってようやく感情やそれらしきものが生まれたものの、ノイザ・ヴォルフォツェール曰く「ようやく子葉が顔出したところじゃないの?」とのこと。
何もかもがこれからなのだ。怪物化け物が人と成るのか。それともより一層手に負えないモノと化すのか。
「――よし。ランベルト、終わったよ。
おーいイェルーン。おいでー」
シジルゼートがつらつらとそんなことを考えている内に、ノイゼンヴェールは手際よくブラッシングを進めていた。いつの間にかマルティンが終わり、ランベルトも今しがた終わった。
ランベルトがのそりと起き上がって体を伸ばしているところへ、イェルンが飛び込んでくる。そしてランベルトにガアアッ!と注意されていた。当然である。
「お待たせイェルン。はいはいごめんごめん。ふふ、お日様の匂いだねぇ。ぽかぽかだ」
突くように押し付けられるマズルからしっかり自分の顎を守りながら、ノイゼンヴェールはイェルンを宥めて休止の姿勢を取らせる。
陽光の中を一走りしてきたイェルンの頭に鼻を寄せてそう笑みを零したノイゼンヴェールを見て、シジルゼートも釣られるように微笑んだ。
感情に合わせて煌く琥珀色の瞳も、その瑞々しい肌の顔も、確かに腹芸には不向きだろう。よく言えば素直で、悪く言えば分かりやすい。
(…だが、それでいい)
そういうところに、惹かれたのだ。エルグニヴァルは勿論、幾人もが。
(はてさて。私もいつまでもつか…。そもそも、閣下が落ちているのだ。時間の問題どころか、気付いていないだけかもしれん。……いや、気付くべきではないのだろうなぁ)
シジルゼートが人知れず肩を竦めた。丁度その時。
ノイゼンヴェールにブラッシングされていたイェルンが、盛大にくしゃみをした。換毛期ではないにしろ、人間同様普段から抜ける毛はある。どうやらフワと舞い上がったそれが鼻に付いた、その結果らしかった。
ブシュンッ!!というイェルンの盛大なくしゃみと、それを受ける羽目になったノイゼンヴェールの「んぎゃ!?」という悲鳴を傍で耳にして、百戦錬磨のシジルゼートと言えど大きく体を揺らしてしまった。
「すみません少将! かかっていませんかくしゃみ?」
「いいえ、大丈夫ですよ。お気遣いいただきありがとうございます。
………ふふ、私ももっと精進せねば」
「? 少将?」
不思議に首をかしげるノイゼンヴェールに「何でもありません」と答えたシジルゼートは、彼女のかくあぐらの中から――はみ出ながら――此方を「何見ているんだ」と眼を付けてくるイェルンをきれいに無視することにした。
勿論、手は出さない。そのあたりはわきまえている。
お互いに。
(22/06/19)




