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39/42

23ー③




 それから先のことは、あまり思い出したくない。――もう散々な目にあった。

 まず、結局その場から動けるようになったのは5限目の途中。意図していなかったと言えば当初の思惑もあるわけだしウソになるけれど、僕の努力もむなしく結果的にサボることになってしまったため、無理やり理由をでっち上げる事になった。

 この件の張本人でもある、我が愛しの幼馴染みはというと、大股で歩きながら大層ご立腹のようで、一体どこの調子が悪いのかいささか疑問なのだが、ブーたれたまま、ふんと鼻を鳴らすと、バカと言わんばかりに目一杯のあっかんべえ。僕を廊下に残したまま、勢いよく保健室のドアを閉めやがった。

 ピシャリと音を鳴らすドアを目の前に、当然ながら溜息が出た。

 確かに、女の子相手に体重云々の話は御法度だと思うし、そこは反省している。日頃から暴飲暴食の目立つ彼女が、まさか自分の体型をそこまで気にしていたとは考えもしていなかったというのが本音だし、これからはこの手のネタには気をつけようとさえ思う。

 だけど、この状況下で残された僕の立場も少しは考えて貰いたかった。

 こんなことなら、僕一人、教室まで駆けていけば良かったのでは。実際、アイツを置いて自分だけでも助かろうとか、そういう考えはその瞬間に思い浮かびはしなかったのだけど、流石の僕だってこの仕打ちには思うところくらいはある。

 毎回毎回、僕が素直にアイツのワガママを聞いてあげるのは、彼女の為にも良くないのではないだろうか。一度心を鬼にして、突き放して見る事も必要なのではと、またもや僕の中の悪魔が楽しそうに耳打ちしてくる。


 ……まぁ、無理なのだけど。


 例えば、仮に、アイツが歩けるようになったあの時、僕が『それじゃ』と踵を返し、ひとりで教室へと向かったとする。

 間違いなく、面倒な未来に行き着くだろう。きっと、僕はその日のうちに酷い目に遭わされるだろうし、その仕打ちは今日だけで終わるとも限らない。

 小さな頃――あれは確か小学生の低学年か。近所の夏祭りで、おばけ屋敷へと興味津々ふたりで入ったとき、まだ小さかったわけだし、正直なところ、おばけ屋敷をなめていた。

 その時も、彼女の前でカッコ良いところを見せようなんて考えていたのを覚えている。だけど、簡易的とはいえ、おばけ屋敷だ。あまりの恐怖に僕は駆けだしてしまって。

 ふと彼女とはぐれてしまったことに気がついて、ちっぽけな勇気を振り絞り急いで引き返してはみたものの、とっくに彼女はへそを曲げてしまっていて。


 『うらぎりものっ! 』


 僕の手を握ったままビービー泣くばっかりで、それしか言えないロボットのようになったアイツを、それはもう何日もかかって大変な思いで宥め賺したのだから、あの時の苦労を思い出すと、もうこりごり。

 だから今回も、アイツはこちらの顔など見たくないといった態度をとってはいるけれど、いざ僕が着いてこないとなれば、いよいよご機嫌の斜め具合も角度が付きすぎてエラいことになるだろうし、なによりも、


 『……』


 あの目が卑怯なのだ。一言もしゃべらずに、ただ拗ねたようなあの目。まるで、アンタのせいなんだからねと、そして、アタシの気持ちくらいわかってるでしょと、そう言わんばかりで。

 あんな目で見られては、心底惚れた手前、もう何も言えなくて。ほんとに惚れた方の負けとは、昔の人も上手いこと言ったモノだ。

 だから、僕としてはわかりましたよと、アイツの気の済むまで付き合うほか無い。

 こんな感じで、保健室まで付き合ってしまうのだから、きっと僕は、これから先も彼女に頭が上がらないのだろう。今回は、僕が悪いわけだし、今までもこちらの配慮が足りなかった場面も多く見られたが、だからといって尻に敷かれっぱなしというのも、男としてそれもどうかと考えはする。けれど、


 『――彼女の具合が悪くなってしまって、保健室に連れて行きました』


 これは、職員室で僕が言った言葉である。アイツを道連れにするという事も出来たろうに、甘いというか何というか。今回もまた、なんだかんだと言いながらも、結局のところ僕はこういう役回りを買って出てしまったわけで。

 もちろん目の前には、あの数学教師が椅子を軋ませながら、禁煙パイポを咥えていて。

 そして、一言、バキバキに血走った眼を見開いたまま、


 『……いい根性しとるのぉ』


 目には見えない謎の圧力に、命だけは助けてください。そう叫びかけてしまう。

 体感で五度ほど、部屋の温度が下がったように思えた。

 端から見るだけでもあれほど怖かったのだから、当事者になった今、足は小さく震え、次々と冷たい汗が滲んでどうしようもない。

 こんな姿の僕なのだ、決して根性は無いのだけど、それでも彼氏として、大好きな彼女を守るのだと、格好つけすぎだろうとどこからともなく石が飛んできそうだが、今の心持ちとしてはそういったしだいなわけで。


 『それになぁ、それじゃお前が授業を丸々サボった理由にはなっとらんぞ? あ? 』


 煙草臭のキツい息を顔面に浴びながら、これが本職のメンチを切るというものなのかと、僕はますます震え上がってしまう。

 あぁそうだ。それも理解している。この言い訳では、一切、僕が授業に出ない理由になっていないのだ。

 昼休みの終わりに女子をひとり保健室に連れて行きました。じゃあ、そのあと急いで戻れば、少しの遅刻で済んだのではと、そう言いたいのだろう。

 でも、一から十まで正直に言うわけにはいかないのが、非常に辛いところでして。

 まさか、バカ正直にアイツが立ち上がれるようになるその時まで、コアラのしがみつくユーカリの木のようにじっとされるがままでしたなんて、こんな職員室の真ん中で、こんな強面の前で、言う勇気は僕には無い。

 まだ僕たちは学生なわけで、この部屋にいる人たちはそんな生徒達を指導する立場。そんな中、まるで不純異性交遊を行ったかのようなことを口走ればどうなるか、そんなの火を見るより明らかだ。

 だから、僕はない頭を振り絞って、足を震わせながら、なんとか出た言い訳がそれだったのだからもうジタバタなんか出来やしない。

 もう少しクールかつクレバーな受け答えが可能なら、その後の顛末も多少は変わったのかもしれないけれど、――ご多分に漏れず、比喩や大げさではなく、地獄を見た。

 別室に呼ばれ、数十分に及ぶ筆舌にしがたい口撃のあと、目もくらむような課題を仰せつかり、挙げ句の果てには、


 『絶対に、授業の前までに提出しろ』


 『え! 』


 こんなにも顔を引きつらせたのはいつ以来だろうか。なんせ、確か次の数学は、明日の1限目だと記憶している。

 そんな。

 無理だ。

 できっこないよ。

 他教科の課題もあるんだぞ。徹夜コース確定だとしても終わるかどうかわからない。そんなの無茶苦茶だと、卒倒しそうになりながらも、せめて放課後までになりませんか。僕は懇願しようと試みた。いや、試みたのだけれど、


 『あ? 』


 『いや、はい、……ガンバリマス』


 『今日の遅れた分を取り戻すんだ、人の倍はやれ。それくらいやって当然だ。それにな、』


 男に二言は無いよなぁ。もう一度、超至近距離でメンチを切ってくる数学教諭を前に、視線をそらしながらも、その拳に浮き立った血管の筋が目にとまり、僕はただただ片言でヤレマスヤリマスヤッテミセマスと呟くことしか出来なかった。

 幸か不幸か、別室から漏れ聞こえた怒声にいろいろと察してくれたのだろう。担任教諭からは特に何もお咎めなしで済んだわけだが、それを差し引いてもずいぶんと高い買い物だったと思う。

 結局、放課後まで保健室でサボり続けたどっかの幼馴染みは、昨日のように靴箱で待ってくれては居たのだけど、僕の顔を見るなり一瞬頬を緩ませてくれたんだけどな。――思い出したように、ぷいっと、まだまだアタシは怒っているのよアピール。


 『いい加減、機嫌直してくれよ』


 『ふんっ』


 鼻息荒く、あとは帰り着くまでだんまりを決め込むつもりなのだろう。そのくせ、僕の隣を肩が当たりそうな距離で歩くのだから、本当に素直じゃない。それなのに、いつまでプンスカとヘソを曲げ続けるつもりなのか。ったく、


 『……ネチっこいんだよなぁ』


 こんな目に遭えば、小言の一言くらい言いたくなるだろう。でも、後々のことを考えて、顔を逸らしてアイツに聞こえないように言ったつもりだったんだけどね、


 『あら、ゴミが付いてるわよ? 』


 口を開いたと思えば、含むような悪い笑みを見せ、まったくゴミなんてどこに付いているのか。――やおら僕の脇腹を力任せにつねりやがった。


 『痛いなんてもんじゃないっ! 』


 何すんだよ! こんな時ばかりしっかり反応しやがって。お前は今、僕を無視してるんじゃなかったのかよ。やるならやるで初志貫徹しろ。

 なんて、言いたい放題言ってしまえば、それこそ大炎上待ったなし。アイツの怒りの炎に油を注ぐどころの話では無い。

 だから文句を言いかけたのを、ぐぅっと唸るように我慢したというのに、この野郎。まったくとんでもないヤツだ。馬鹿にしたようにベーっとまた舌を出しやがった。

 こうなると、少しだけ疑ってしまう。

 あの昼間の雰囲気はいったいどこに消えてしまったのだろうかと。もしかすると僕だけが見た白昼夢の一種なのかもしれない。僕の寂しい心根が生み出した幻覚の一種。そう考えれば今のコイツの態度も納得が――と、くだらないことを考えながらも、前方から来る、一台の軽自動車に目がとまる。


 『ほら、車だ』


 ケンカの途中ではあるけれど、狭い歩道だからと、いつものようにアイツを引き寄せ、車が通り過ぎるのを待つ。


 『……ふんっ』


 苦々しい顔で、いつのまにやら僕の腕を抱いて、ばつが悪そうにまたもやアイツは鼻を鳴らした。

 言いたいことは山ほどあるし、もしかすると幻覚かもと疑いたくもなる。だけど、急に態度が変わってもやりにくいだけか。いつもどおりの平常運転じゃないと、調子が狂うってモノかと、そう思いなおすことにしよう。

 そもそも、突然コイツがしおらしくなったり遠慮したり、ワガママを言わなくなったりしてみろ。どこか具合が悪いのかもと、そう僕は邪推するに決まっている。

 変に心配して焦って、そしてまた明後日の方向に物語を進めてしまい、またもやバカみたいな失敗をしてしまうかもしれない。たとえ、ふたりの関係性が幼馴染みから恋人に変わっても、性格や姿形が劇的に変わるわけでは無いし、それこそ趣味趣向が変わるわけでも無いのだから、結局いつものように、くだらない諍いが絶えない僕たちは、どこまで行っても僕たちなのだと、そういう事なのだろう。

 うだうだと言い訳のような言葉を繰り返してはみたが、ようするに僕は、いつものコイツが好きなんだ。ワガママで泣き虫で意地っ張りな、そんなコイツに心底ベタ惚れなわけだ。

 アイツが僕の事をどう評価して、それがこれから彼女の中でどう変わるのかはわからないけれど、僕のアイツに対するこの想いだけは、きっと変わらないと思うし、変える予定も無い。

 なんて、彼女の暖かさを右腕に感じながら、この感情を何というのだろうか。諦めと嬉しさが同居するような、そんな溜息交じりの笑みがこぼれた。

 とりあえず言えるのはただ一つ。本当に、今日は疲れた。




 なんて、僕としては、やっと忙しかった1日が終わる。そう思っていたのだけれど。

 そうは問屋が卸してはくれないようで。

 まさか、最後にあんなにもドデカい核弾頭が用意されていようとは考えもしなかった。

 アイツを家に送り届けると、玄関先で、またひと悶着あったのだ。

 相手は、アイツのお母さん。そう、あの一筋縄ではいかないおばさんだ。

 だいたい予想はしていた。あんな無茶苦茶な理由でサボったんだ、きっとおばさんには一発でウソだとバレている。


 『……ゲンコツは痛いの』


 目の前を星が瞬くのよ。そう呟いたアイツの顔は、本日一番の青色だった。

 温厚で物腰の柔らかな人なのだけど、喧嘩っ早いこの姉妹の母親なだけあって、手が出るのも早い。

 おてんばだった昔のクセがね、抜けなくて。と、恥ずかしそうにおばさんは言っていた。

 もちろん、悪さをした時限定ではあるのだけど、あの細い腕のどこにそんなパワーを隠しているのか。おばさんのゲンコツは、本当に良い音がするのだ。

 学校から連絡がいっているだろうから、頑張れよと、僕は家が近づくにつれてビビり倒すアイツを鼓舞するかのように、肩を叩いたんだ。


 『……一緒に部屋まで来て』


 あわあわと、彼女が目を泳がせながら、放してなるものかと、万力のような力で僕の制服の裾を掴んでくる。


 『イヤだよ』


 ボディガードなら、無理だぞ。僕の筋肉では太刀打ちできやしない。それに、


 『僕は、おばさんには逆らわないと、心に決めているから』


 お前がらみで数々の惨劇を目の当たりにしてきたんだ、そのおっかなさも充分承知している。そんな相手を、誰が好き好んで敵に回すというのか。


 『なんでよ! 彼氏でしょ!! 』


 ちゃんと彼女を守りなさいよ! などと、玄関先でのたまいやがるもんだから。まぁ、なんと都合の良いことで。今の今まで散々無視して、更にはやりたい方題してきやがったクセに、そうお前の都合の良い方にばかり、誰が加担してやるもんか。


 『彼女をちゃんと叱る事が出来るのが彼氏だ』


 悪いことは悪い。今日はもう、数学教諭の件など、目一杯甘やかしたからな。これ以上甘やかしては、いよいよお前のためにならないだろう。


 『せめて、アタシを怒らないでって、いっしょにお母さんに頼んでよ』


 『ダメだ。しっかり叱られろ』


 『鬼! 悪魔!! 』


 『誰が悪魔だ』


 『わ~ん! 絶対痛い目にあうじゃん!! お願いだからたすけてよ~っ! 』


 くるりと回れ右、帰ろうとする僕の腰にしがみつくように抱きついて、必死な形相でやいのやいのと暴言をぶつけてき、いよいよ収拾が付かなくなってしまう――そんな時だった。


 『――うるさ~いっ!! 』


 件の人物が、ガシャンと勢いよく扉を開けての登場だった。


 『ひぇえっ!! 』


 すり込まれた回避行動か、鬼が出たと言わんばかりに一目散に逃げだそうとするアイツなのだが、やはり相手の方が一枚も二枚も上手。目にもとまらぬ早業で、彼女の襟首をむんずと捕まえて、おばさんはニヤリ。


 『聞いたわよ~♪ 』


 僕の方に向けられたその笑みが、いったい何を意味するのか。怖くて聞けやしないけど、見るとアイツはもう逃げられないと、そう観念したのだろう。ずるずると力なく玄関のたたきへと引きずりこまれていく。

 僕はというと、そのままゆっくりと扉が外れ、こちらに向かい倒れてきたもんだから、これまた慣れた動作で丁寧に受け止め、はめ直した。

 もう、こうなるとアイツに逃げるという手段は残されていない。

 おばさんはとっくにアイツの襟首から手を離しているけれど、まさにまな板の鯉。あとは天命に従うほか無い。もう煮るなり焼くなり好きにしろと、生気を失った顔で、アイツは僕の隣に力なく立ち、口もとをひくひくと震わせた。

 だけど、僕たち二人の顔をじっと見たかと思うと、開口一番である。


 『ちゃんと避妊はしてるんでしょうね』


 ……崩れ落ちそうになった。人様の玄関先でなければ、もう疲れたと、もう散々だと泣いていたかもしれない。


 避妊って、思春期まっただ中の高校生を前にして、唐突に何を言い出すのやら。

 隣のアイツは、不意打ちだったからな、もう一瞬で顔を真っ赤に染め上げると、言いたいことも言えないまま、陸に上がった金魚みたいに口をパクパクと動かしていた。

 だめだ、こうなるとこいつは使い物にならない。小学生の頃、僕の飲みかけたジュースをいつものように回し飲みをしていた時、それを同級生の悪ガキにはやし立てられ、まったく同じ状態に陥った。


 『――うわぁ、間接キッスだ! 』


 僕としては、まだ小さかったし、何言ってんだコイツくらいにしか思っていなかったんだけど、彼女が、自分の唇に手を当てて、まるで電熱線のように顔を染め上げたもんだから、大変で。

 だけどあの時は、何言ってんだろうねと、僕が気にしないフリを貫いて、事なきを得たが、今回は、あのおばさんが相手なのだ。

 適当に笑って誤魔化すことも出来そうだけど、ご近所ネットワークもあることだし、下手な言い訳は、尾びれ背びれ胸びれをつけかねない。文字通り大惨事へと繋がるだろう。

 僕は、額に手を当ててため息を一つ。


 『僕たち、別に何もしてないから』


 『え? ナニもしてないの? 』


 『ヤってないわよっ!! 』


 音量を調整する部分が壊れたスピーカーのように、大声でアイツが叫んだ。いつもならさっきみたいにうるさいと叱られる場面なのだけど、おばさんは、端っからアイツを相手にはしていないようで、その目は完全に僕をロックオン。


 『昼休みから六限目まで、二人で姿をくらませてたって聞いたわよ? 』


 別に初めてじゃあるまいし、隠さなくていいじゃない。なんて、おばさんはその顔に悪い笑みを張り付けて、とんでもないことを言い出した。


 『どうせ、うちの子から迫ったんでしょ? 』


 そして、おばさんのマシンガントークは止まらずに。


 ――そっちから襲うことはないもんね。うちのバカ娘のこと大切にしてくれているの知ってるから。こういう女子のことを今は肉食系って今は言うんだっけ? あはは、知ってる? 最近の少女漫画って過激なのよ。あんなのアタシ達の時代なら立派なエロ本よエロ本。確か先月号だったかしら授業をサボって、みたいなシーンがあって。アタシ、今日の学校からの電話で、すぐにピンときちゃったわよ。そんなの毎月欠かさず読んでるもんだから、大胆というかバカというか、イヤね~、あの子おぼこのフリしてムッツリなんだから、もうほんとスケベでごめんなさいね~。


 『あは、あはは』


 その間、誤魔化すように笑ってはみたモノの、僕は今、いったいどうすべきなのか。途中からアイツが僕の両耳をガッチリと手で塞いできたもんだから、全部は聞こえなかったんだけど、隣にある彼女の今にも泣きそうな真っ赤な顔と、熱を持った手のひらの震えから大体の内容は理解できた。

 何というか、非常にいたたまれない空気に、心が痛い。

 最後には、もう無理と大声をあげながらアイツが家の中に駆け込んでしまったから、そこから先、彼女がどうなったのかは知らないのだけど、僕が、家を後にしようとしたとき、おばさんが言ったんだ。

 いつもみたいに優しく微笑み、僕の頭を優しくなでながら。


 『あの子、きっと世界一の幸せ者ね』


 でもね、とおばさんは言葉を続けていく。


 『もし、どうにも我慢できなくなっても、どうにか我慢しなきゃよ』


 我慢できなくて、大切な人に死ぬほど苦労させてるバカをアタシは知っているから。そう唇をわずかに笑みの形にすると、


 『アタシの知り合いに、大金持ちのバカ娘がいてね。世間知らずの箱入りで、そんな子に、どうしても結婚したい人が出来たのよ』


 おばさんは、呆れたような面持ちで溜息をつくと、ポツポツとまるで懺悔するかのように誰か知らない人の話をし始めた。

 なんでも、その子が恋慕した相手は、新聞配達をしていた苦学生。


 『はじめは、たまに会話をするだけだったんだけどね』


 ――素敵だったんだね。


 僕の問いかけに、おばさんは頬をほころばせた。


 『おじいちゃんとふたり暮らしで、負担をかけたくないって』


 そう言った横顔がかっこよかったのよねと、その時にはもうメロメロだったとの事で。

 えらく熱の籠もったおばさんの人物評価に、薄々気づくところはあったけど、とにもかくにも少女からの猛アタックの末に、晴れて恋仲になったらしい。

 当然、両親はいい顔をしなかった訳で、何でも決められた婚約者もいたっていうんだから本当に上流階級の娘さんだったのだろう。


 『20も上のおっさんよ? 合うたびにいやらしい目つきでジロジロと、上から下までなめ回すように見るんだもの。キライでたまらなかったわよ。……って彼女は言ってたわ』


 苦々しげに、まるで記憶を振り払うようにおばさんは頭を振った。

 そして、3年ほど経ったある日、いよいよ結婚の話が本格的に動き出したから、


 『その子が19の時、無理矢理、既成事実を作ったのよ』


 要するに、彼を押し倒したのよね。バカよねと、おばさんは自嘲気味に笑った。


 『彼は、きちんとキミの親に認めて貰おうと、それからだと言ったけど、バカ娘の方が、どうにも我慢できなかったの』


 だって、両親が彼を遠ざけようとしたんだもん。そんなの黙ってられないわ。アタシの運命の人に何してくれてんのよって話よね。

 と、ここまで言って、


 『あ。大金持ちのバカ娘の話よ? 』


 僕は、気づかないふりで苦笑い。

 あとはなし崩し的に、あれよあれよという間に勘当と相成ったらしい。眉唾物だったが、その手の人たちは本当に世間体を気にするのだろう。着の身着のままで紙くずを捨てるようにポイだったみたいで。


 『まぁ、そう仕向けたわけだし、半分駆け落ちみたいなもんよね』


 跡継ぎなら優秀な兄様が居たし、こんなことなら少しばっかり金庫の札束をちょろまかしとくべきだったわね。と、おばさんは愉快そうにカラカラと笑った。

 僕は尋ねた。それからどうしたのと。だって、そんな若者が、親の支援もなしに生活していくのは相当な努力が必要だ。まだ高校生の僕にだってわかる。それは、生半可なモノでは無かったはずだ。


 『苦労……は、しなかったかな』


 途中でわずかに言葉が切れたが、でもそうねと、おばさんは遠くを見るような目で頬をかいた。

 彼のおじいさんがとてもいい人だったこと、さらに、隣の夫婦が世間知らずな自分をまるで本当の妹のように気遣ってくれたこと。そして、


 『だって、彼がアタシの分まで全部、今もまだ、苦労してると思うから』 


 だから、と少し反省したような笑みのあと、おばさんは僕の背中を叩いた。


 『というわけで、おばさんは、お隣の男の子を信頼しています』


 あの子があんまりワガママを言うようだったらすぐ言ってね、アタシがひねりつぶすから。と、そう本当に嬉しそうに笑いながら言ってくれたんだ。

 僕はただ、はい。と一言だけ。

 そうだ、確かにそうなんだ。世の中、惚れた腫れただけで生きていけるほど甘くない。それこそ、本当に大切な相手の事を考えるなら、しっかりとした生活を営んでいけるよう、計画し、それに向けて努力していくことが大切なのだ。一瞬の快楽に左右されてはダメだ。漫画やアニメ、ドラマや映画の世界ではないのだから、ひとつのサバ缶をふたりで仲良く分け合いました。そんな美談は、現実の世界では通用しないのだ。

 考え混む僕を、なにやら嬉しそうにそして満足げにおばさんは見つめてきて、


 『男はね、好きな相手の前では格好つけなきゃいけないんだって』


 愛しの彼の口癖なのと、もう一度、照れくさそうに笑った。





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