17
一限目も終わったというのに、一体どこで油を売っているのでしょう。
先生が退室し、ざわつく教室の片隅で、教科書やノートを机に収めながら、私は誰も居ない彼の席を横目に溜息をひとつ。
昨日も遅刻したというのに、今日も遅刻とは本当に困ったものです。来年は最上級生だというのに自覚が足りません。それに、こんなに遅刻が目立っては、進級さえもいささか不安に思えてきます。
確かに学歴が人生の全てではありません。さらには一度や二度の留年が、その後の人生にどういったリスクを及ぼすのかなんて、まだ高校生の私には到底わかりません。それに、高校を出ずとも立派に社会貢献している方々はたくさんいらっしゃいます。
ですが、そうは言っても彼は在学中の学生です。学徒であるのならば、やはり学校生活を真摯にこなすことこそ本分と言えるのではないかと、そう私は考える次第でして。
でも、この手の話をすると、決まって彼はイヤな顔をします。
そして、『マジメちゃんめ』とはぐらかしてきます。
そもそも彼は、卒業後どうするつもりなのでしょう。進学する、しないにかかわらず、将来に向けて考える、そういった時期に私たちの年代はさしかかっています。
彼のことですから、持ち前の負けん気でいかような困難にも正々堂々、真っ正面から立ち向かって行くでしょう。ですが、私個人として、彼が己の将来をどう考えているのか、詳しい腹積もりなどなど、その辺りの事が気にならないわけではありません。
ですが、そんな出歯亀のような私の思惑など、等に見透かされているのでしょうね。
以前、下校時に近場の公園にて尋ねたときも、
『将来か? 将来はそうだな……スナフキンとか憧れるよな』
などと二人掛けのベンチの隣、並んで座る私へと、意味不明な回答をしてくる始末で。この時もきっとはぐらかそうとしたのでしょう。そして、同時にイタズラも思いついたのでしょうね。
『砂布巾? 』
そんな用具は初めて知りました、いったいどういった用途で用いるのか、そもそもどういう形状の布巾なのか、頭の中を疑問符だらけにしていた所を、
“パシャリ”
それがスマートフォンのシャッター音であることに気がついて、私は彼を睨みつけました。
『……盗撮ですか』
本当に趣味が悪い。油断しきった眼鏡女子の顔を、しかもこんな近距離でカメラに収めるとは、いささか常識外れが過ぎる。
『消してください』
もしくはそのスマートフォンを破壊してください。そんな画像、データの無駄です。世の中が必要としていません。無駄は排除すべき。世界はエコで出来ております。
しかし、彼は一体どういうつもりなのか。高く携帯を掲げるものだから、取り上げようと、目一杯伸ばした私の手は空を切ります。当然彼は、してやったりとニヤけ顔。
意地になり、数度となく取り上げようと手を伸ばしますが、巧みに逃げる彼は、やはりニヤけ顔のままで。
そのまま、彼の胸へとバランスを崩した私を抱きしめるように受け止めて、
『心配すんな、美人に撮れてるって』
またもや、にやり。
ですが、それはウソです。いよいよこの手の冗談は聞き飽きました。なんせこの公園には今、彼と私のふたりだけ。なにかあれば美人美人と馬鹿のひとつ覚えみたいに、あのですね、この空間のどこに美人と言われるヒトがいましょうか。えぇ、そうですとも。きっとその写真にもマヌケ面の冴えないおぼこが映っているはずです。
そもそもですね、撮るなら撮ると言ってください。
『じゃぁ、撮るぞ~』
『え? え? ちょ、ちょっと待ってくだ――』
ちょうど彼の腕の中、見下ろすようなカメラレンズに向かい、はいチーズ。かけ声に合わせ、反射的にピースサインをした私。
そして、あのシャッター音が聞こえ、
『……あ! 』
『……よっしゃ! 』
彼のどこか達観した満足げな顔と、見せられた画面に映った、少しだけ眼鏡のズレた少女。
ピースなんていつ以来でしょうか。ここ数年こんな姿を写真に撮られた記憶がありません。それなのに、さっきより接写され、なんですかあの妙なはにかみ顔は。自分自身の油断しきった品のない顔に、あぁ、とんだ失態です。我ながら、もう馬鹿かと。
どうせなら、もうちょっと可愛く映りたかった。なんて、思っていません。えぇ、思っていませんとも。
こんな背の高い能面女が、何が可愛くだ。そんな声はごもっともです。私も今以上のパフォーマンスが出来るとは思っていません。ですが、その画像の保存先が、彼の携帯というのが問題で。
もし、生意気な発言を許していただけるのならば、こう見えて私も女子の端くれです。どうせ撮られるのであれば、まだいかようか改善する余地があったのではと思う次第でして。
もちろん、先ほども言いましたが、自分の身の丈はよくわかっております。わかっておりますが、なんと言いますか、彼にだけは、少しだけでも良く想って頂きたいものでして。
……まぁ、それはそれ。これはこれ。無駄なおしゃべりが過ぎました。
とにもかくにも、あの画像データをどうにか抹消せねばなりません。彼から身を離し構えます。ですが、彼も流石というかずる賢いというか。
どうにかせねばと画策する私の眼前で、あっという間にズボンのポケットへと、スマートフォンを滑り込ませたのです。
『卑怯者! 』
思わず声が出ました。ですが、出て当然です。だって、まさか彼のポケットをまさぐるだなんて、私には到底出来そうもないのですから。
こうなると、もはや実力行使しか有りません。ここまでやられたのです。いよいよ私も覚悟を決めました。目には目を歯には歯を、です。
私は、自分の携帯電話を取り出して、彼を威嚇します。
『アナタの写真を撮りますよ! 』
良いんですか!? と、おまけ付き。こうなれば、彼も自分の顔が他人の携帯端末に記録されることを良しとはしないでしょう。もし私が悪い奴ならば、報復にと、その画像を使いとんでもなく酷い目に遭わせることでしょう。まぁ、そんな事は間違ってもしませんが。
ですが、ここまでやれば彼も渋々私の画像データを消すはずです。自分の顔を電子の海に流されるか、もしくは能面女の画像を消すか。そんなもの天秤にかける必要すらないのですから。
――なんて、その時はそれが最善手だと考えたのですが。まだまだ脇が甘いというか詰めが甘いというか。
次の瞬間、私は、まさに度肝をぬかれました。
だって彼が、
『貸せ』
おもむろに私の携帯電話を取り上げると、もう一度私を抱き寄せてきまして。
ほんのわずかな煙草の匂いと、息を呑む、そんな自分の声。
そして、私を胸に抱いたまま、“パシャリ”。シャッターを切ってしまうのだから。
あれよあれよという間に全てが起こり、あっというまに全てが終わりました。何が何やらちんぷんかんぷん、てんやわんやの意味不明。
……一体なにがどうなったのか。
残ったのは、どこか緊張顔の彼と、その胸に抱かれたまま、振り向いた姿勢で映る真っ赤な焦り顔の少女の画像。
そして、つづけて画面に映る、保存しますかの文字。
保存しますかなんて、私の携帯は何を問いかけてきているのだろう。沸騰しかけた頭のまま、彼に手渡された我がスマートフォンを握りしめ、
『……これでおあいこだろ』
保存するなら、しろ。彼がどういう意図でそう言っているかはわかりません。なんせ、そうまでして、冴えない女の写真を欲しがる理由が見えなくて。
今考えると、ちょうど周りには誰も居ませんし、淡々と問い詰めるのもひとつの手だったかも知れません。
ですが、彼のその言葉に、私は心の中で『ひ、卑怯者……』恨めしそうに睨みつけ、そして唸ることしか出来ませんでした。
その後、例のデータがどうなったかは、彼もその画像のことを聞いてこないので内緒です。
言うなれば互いに人質を取り合って牽制している、まさにそんな状態だと私としても考えますし、そもそもそれが私と彼の関係性でもあります。なによりも、いまさら改まってお話しする事でもないですしね。
……そうですとも、なにも面白い事なんてないのです。
ただ、私の机の上に、写真立てがひとつ。
そう、とても大切な宝物が、たったひとつ増えただけの、そんな些細なことなのですから。
そんな私を呼ぶ声が聞こえ、見ると、教室の入り口に見覚えのある女生徒が立っていました。
はじめは、クラスがいつも以上にざわついているなと、特に男子生徒たちが色めき立っているようで、何事でしょうかと思いましたが、あぁなるほどと合点がいきました。
私に気がついて、こちらに小さく頭を下げたのは、昨日、楽しくお話ししたあの見目麗しい一年生で。
それにしても、溜息が出るような容姿は、まさに可憐、その一言です。小さな顔に、整った目鼻立ち。流れるような黒髪は美しく、理想的な体つきは、私の成長も、せめてあれくらいの背丈で止まっていれば、まだ望みはあったかなと、そんな嫉妬すら覚えます。
私を呼んだ友人も、同性ながら見惚れているようで、それでいて仲良くなろうとしていますね。
「ねぇ、アメとか好き? 」
「あ、はい」
「こっちにはチョコもあるよん」
「こ、これ……おいしいですよね」
「はい、美女の笑顔もらった! ありがとうございます! 」
「これはどう? お姉さん的に、これも中々だとおもうけど」
「あ、ありがとうございます」
「いや~ん、かぁわぁい~い~」
「え~、ずるい! アタシもお気にのお菓子持ってくれば良かった! 」
他数名の女子と共に、熱の籠もったお菓子攻撃を繰り出しています。
ですが、このままではらちがあきません。一限目の休み時間はそう長くはありません。
しかも、廊下、教室内と男子生徒も彼女と仲良くなりたいのでしょうね、何やら動き出そうとしている気配すらあります。
それに、多数の女生徒に囲まれて溺れそうになっている彼女。――その手足は少しだけ震えていて。
そうですよね。こんな下級生がひとり、上級生のクラスに来ているのですから不安で仕方がないのは当然です。
そうなるとなおのこと、手短に用件を聞いてあげるのが、彼女の為でしょう。
私は、すみません、通ります。そう言って、彼女の所に急ぎます。その際、モーゼの十戒もかくやと言わんばかりに、女生徒たちが退いたのですがなんだったのでしょう。そして皆、そのまま私たちから距離をとる始末。
「……いやいや、あの二人と並ぶのはダメでしょ」
「女として勇気いるよね」
「ちょっと見てよ。二人揃って、やだ~、顔ちっちゃ~い。足、長~い」
「腰の位置とか何よあれ。それにあの細さとか、内臓が行方不明なんだけど」
「いやぁ、憧れる。美しさに重さがあるんなら、あそこに向けて世界が傾くわよ」
ひそひそと、真剣な顔で何を話し合っているのやら、彼女も、何が起きたのかと私と二人、首をひねります。
あっ、といけません。私は気を取り直して少し怯えの見える彼女に向けて挨拶をしました。おはようございますと簡単に。とりあえず、用件だけでも聞いてあげないと、万が一、この可愛い後輩が二限目に遅れ、先生に叱られたとあっては可哀想です。
そんな微笑む私を、その綺麗な相貌が見つめてき、そして、
「お呼びだてして、すみません」
不躾ですが、お願いがあります。そう一言添えると、彼女はもう一度頭を下げてきました。
昨日一度会っただけの上級生に、こんなに礼儀正しいなんて、こういう子には、全力でサポートしてあげたくなるのはおかしな事でしょうか。この可愛さも相まって、間違いなくこの子はクラスの人気者でしょう。
でも、そうですね。気になるといえば、少し大げさかもしれませんが、
「昨日みたいにフランクに良いですよ」
私は、昨日のアナタの方が、より好ましくおもいます。
なにか頼み事があるとは言え、そこまでかしこまれれるとこちらも少し緊張してしまいますので。
私がそう微笑むと、彼女も少しだけ肩の力が抜けたのでしょう。柔らかく笑みをこぼしてくれました。
「例の階段の踊り場、今日のお昼だけ貸してもらえませんか」
そして、何を言うかと構えていたのに、なんだ、そんなこと。しかも小声でしたけど、『お弁当を作ってきたので、一緒に食べたいヤツがいまして』なんて頬を赤らめて、愛らしいことを言う始末。そんな彼女の生真面目さとそして愛くるしさに、私はちょっとだけ可笑しくなってしまいまして。
「あそこは私のものではありませんよ」
確かに、彼と私くらいしか使う生徒はいないでしょうが、だからといってわざわざ了承を得なくても良いのですよ。
「そっか、そうですよね」
そう彼女は、どう表現しましょうか、失礼かも知れませんが、にへへと子供っぽく笑いまして。またそれが彼女の持つイメージとのギャップからか、まぁ可愛くて可愛くて。
やっぱり、彼女ほどの美少女が笑うと幸せな気持ちになりますね。彼女が笑みをこぼした瞬間から、男子生徒たちの熱視線を四方八方から過剰なまでに感じますが、そこは「おい男子、右端から順にグーパンな」我がクラスの女子たちが、どうにかコントロールしてくれるでしょう。
――でも、どうやら少しほぐしすぎたのかも知れません。
一限目の休み時間、普段ならヒトの行き交う廊下も、賑やかな教室も今は皆、いつもと違う雰囲気に呑まれています。
だってそうでしょう。なんせ今、こんなにも目の覚めるような美人が、入り口の前に立っているのだから。皆の目は当然ソコに集中していまして。
そんな普段とは大きく違う、異質な空間で、――もしかしたらこの子は少し、えっと、何というか、あの、少し天然という性質なのかも知れません。
決して馬鹿にしているとか、そういった悪口ではないのです。でもですね、こんな場所でまさかと耳を疑いました。
「先輩の彼氏さんにもよろしくお伝えください」
あまねく観衆の目と耳を、その美貌で釘付けにしておきながら、あろうことか、良く通る美声で、そう宣ったのだから。
「――かっ! かれっ! しっ!? 」
あのですね。私の声が上ずるのも当然です。同時に体温が数度上がったようにも感じます。
そして、言うだけ言って去って行ったアナタは知らないでしょうけど、その後の私がどんな恥辱を受けたことか。
突然の刺激的な言葉の強襲に、わなわなと身体を震わせる。そんな私に、周りは皆、そういう話題が大好物のお年頃なのですからね、
「……彼氏は、きっと背が高いだろうね。アタシの妄想だけど」
「そうね、あくまでイメージだけど、おそらく遅刻の常習犯」
「あと、たぶんメチャクチャひねくれもんだよ」
「あ、それわかる。それであれでしょ、周りに人がいるととたんに彼女に冷たい系。ったく、ヘタクソかよ」
「そのくせ、ずっと彼女のこと気にかけてるのがもうバレバレで。何なのアレ」
「うける~。帰り道とかで、あまりの好き好きムーヴにこっちが気を使って回り道しちゃうとか、もはやあるあるだよね」
私はもう、針のむしろです。ここまでくるともはや一種のイジメなのかも知れません。去年から続くお弁当やらなんやらの一連の行動から、とっくに皆は私の気持ちに気がついているのでしょう。彼がいないことを良いことに、まったくもう、好き勝手に言いたい放題。
当然、皆は面白おかしく言っているだけで、彼がそんなつもりでないことは、私自身、百も承知です。
だから、これは結局のところ戯れ言でしかなくて。
私は、変に盛り上がる友人たちを無視して次の授業の準備を始めます。そう、こんな事でいちいち取り乱していては、せっかくの授業に差し支えます。学徒であるのならば、やはり学校生活を真摯にこなすことこそ本分。
そう、学生である身としては、勉学こそが重要な――
「――あ、噂の彼ピッピだ。おはよ~」
別に、その言葉に反応して、取り乱したわけではありません。だから、盛大に教科書やらノートやらを足下にばらまいたのもたまたまですし、もしかして、さっきの話を聞かれたかも、なんて、焦ったわけでもありません。
「ちがうんです! 別にアナタの彼女だとかそんな――」
「――なんちゃって~」
そう言って笑う友人たちに、顔面から火が出るかと思い……久しぶりに腸が煮えました。
「……もう、今日は誰とも口をききません」
そのまま机に突っ伏して、ゴメンゴメンと抱きついてくる友人たちに、しばらく無言を貫いたのも、別に他意があるわけではありません。
……ただ少しだけ、思うところがあります。
もし、もしもですよ。先ほどの場に彼がいたのなら、彼女の言葉にどう反応したのでしょう。なんて、そんな事を考えてしまいます。
もし、“彼氏さん”なんて言われたら、アナタはどう返しますか。
呆れたように一笑に伏しますか? それとも、からかうなと怒り出しますか?
もしくは、万に一つも私の事を……
「……なんちゃって」
きっと、からかう皆のせいでしょうね。今の私は、どうやらどこか、普段通りでないようです。