7
アタシは月曜日がキライだ。
そして、そんな日に、朝から騒がしいヤツはもっとキライだ。
「ねぇ~、寝癖が直らないんだけど、どうしよ~」
アタシの住むボロ家には、洗面所が一つしか無い。しかも、人一人が立てるほどの小さなスペースしかないのだけど、毎回のようにうちの姉が占領しているもんだからたまらない。
「しらん。どいて」
ただでさえ平日の朝は戦争なのだ。遅くまで寝ていたい派のアタシは、目覚めてから学校に行くまでの時間をギリギリまで削っている。
さらに、朝ご飯を食べないと母が激怒するので、朝の身支度は本当に修羅場なのだ。
姉の脇から無理矢理身体をねじ込み、アタシは歯ブラシをとる。
「あ、ちょっと、やめなさいよ! 」
大体、髪が長すぎるのだ。
確かに髪質の柔らかな綺麗な黒髪だ。姉も顔の造形だけは優秀だし、ロングはとても様になっていると思う。
だけど、毎日毎日、ボッサボサの髪と戦う時間がもったいないと考えないのだろうか。アタシみたいにショートにしておけば、寝癖なんてちょちょいのちょい。多少のハネはご愛嬌。
しかも、なぜか教室で友達が整えてくれるし、やっぱりショートが最強である。
かくいうアタシも、昔は伸ばしっぱなしでかなり長かったのだけど、いつぞや姉と美容室に行ったとき、このバカが
『この子をもっと可愛くしてください』
なんて言うもんだから、今の髪型はその時からか。
もう少し短くてもいいけれど、髪型変えたら絶交するなんて、友達数人がどこかウットリした顔で言うもんだから面倒くさくてそのまんま。
そんなこんな姉と押し合いへし合いで、なんとか身支度を済ませる頃には、もう家を出る時間。中学校までは自宅から歩いて二十分ほど。
鏡の前、セーラーのリボンを整えて、よし。今日も普通だ。アタシは『いってきます』と家を出――
「待って! 」
……出たいのだけど、敷居をまたぐ格好のまま――アタシのリュックが姉の手に捕まっていた。
「離して」
「お願いだから、待って」
つくづく思う。我が姉ながら、よくもここまで化けられるものだ。
派手な髪色でもないし、高校のブレザーを着崩している訳でもない。化粧も目立たないくらいしかしていない。だけど、制服に身を包んだ姉は、紛う事なき美人なのだ。
そんな美女が、お願い。なんて困り顔で頼むのだ。普段を知らない人ならコロリと騙されるだろうね。
でも、アタシにはこれといった効果があるわけでもなく。
「ヤだ。絶対にヤ」
むしろ、こういう時の姉はやっかいなのだ。アタシは身をもって知っている。
姉のお願いはホドホドに。それが我が家の家訓である。
だが、姉の方もアタシが断ることを想定済みなのだろう。どこかひきつった、それでいて切羽詰まった顔で、人差し指を立てた。
「……今日の宿題、やったげる」
「乗った! 」
そこまで言われたら仕方ない。アタシも鬼ではないわけだし、たった一人の姉の頼みなら、よろこんで引き受けましょう。
アタシの手のひらは、まさに高速大回転。
考えるまでもない。即答だ。先日買ったゲームで忙しく、宿題なんてやってる暇はない。母に知られれば地獄を見るだろうが、バレなきゃなんということはない。アタシは、ほとんど脊髄反射で親指を立てた。
――姉のお願いは本当に単純なものだった。
なんてことはない。兄ちゃんの家まで一緒に行こう。ただのそれだけ。
さすがに馬鹿らしくなって、
『ダーリンの家なんて、すぐそこじゃん。アタシが電話して呼ぼうか?』
なんて軽口を叩いたら、
『次、アイツのことダーリンって呼んだら覚悟しなさいね』
にこりと静かに笑われた。
アタシは知っている。この笑いかたはヤバいヤツだ。
『……はい。さーせんした』
過去の忘れ去りたい記憶が脳裏を走馬灯のように走り、久しぶりに姉へと頭を下げた。
そして、
「アタシが、玄関のチャイム押すまで見ててね。約束だからね」
「はいはい、わかったから、ちゃんと歩いてくんない? 」
兄ちゃんの家までほんの数歩。アタシは姉を半ば引きずって歩いているわけで。
ひとの背に隠れるようにして腰を引いて歩くもんだから、重たくて仕方がない。リュックに姉の体重がかかり、肩紐が食い込んで痛いのなんのである。
「……チャイム押さないとダメかなぁ」
「いや、待ってりゃ出てくるでしょ」
あっという間に兄ちゃん家に到着。姉を引きずったとしても、たいした距離ではない。
それにしても綺麗な家である。
おばさんがきれい好きだからだと思うけど、庭木の手入れが行き届いていて、季節ごとにいろいろな花が咲いている。うちとは比べものにならないおしゃれな家である。
コレを家というのであれば、我が家は小屋といわれても仕方ない。
そんな住む世界の違う空間で、花の十代が二人。あとは呼び鈴を押すだけなんだけど、この姉のことである。
「ねぇ、後ろのほうとか跳ねてない? 」だの、
「前髪がさぁ、ヤだなぁ……」だの。
なよなよモジモジとし始めたのだから閉口してしまう。
さすがに、アタシにも予定がある。姉たちがどうしようと知ったこっちゃないが、こっちは学校に遅刻すると非常にやっかいなのだ。
まず友達が心配し、次に担任に怒られ、最後に母からひっぱたかれる。良いことなんて一つも無い。多少時間に余裕を持って登校しているけれど、それでもそこまで時間があるわけではない。
あのさぁ。と、アタシは溜息をついてしまう。
「とりあえず玄関先まで行きなよ」
姉の背中を押して、強引に門扉をくぐらせた。
「ちょっと押さないでよ!! アタシのタイミングで行かせてよ!! 」
「うっさい! 遅刻すんの! 」
アタシと姉は背丈がそこまで変わらない。だから、どちらが極端に力持ちと言うこともなく、この場合、前で踏ん張る姉よりも、後ろから押すアタシの方が有利なわけで。
「せ、せめて、せめて前髪だけは直させて! 」
「い、いいから早くして! 」
まだ今日は始まったばかりなのに、朝っぱらから肩で息をしているのだからたまらない。
しかも他所様の玄関先である。若い女が二人して、ゼェゼェと膝に手をついて息を切らせているなんて、いったいどんな場面なのか。
でもまぁ、なんだかんだで玄関まで着いたのだから、あとはこっちのもの。アタシが呼び鈴を押してしまえば良いのだ。
姉は怒るかもしれないけど、兄ちゃんが出てくれば、どうということはない。どうせ、姉の目はそっちに釘付けになるのだから。
姉はせっせと前髪と格闘中だし、機会を逃せば、無駄に時間を費やすことになりかねないわけで、やはりチャンスは今しかないだろう。
そんな、アタシの指が呼び鈴に触れる、ほんの少し前に、――扉が静かに開いたのだ。
一呼吸置いて、姉の笑顔が満開に咲き誇る。
「あ。お。おは――」
そして、扉が閉まった。もちろん兄ちゃんは家から出てきてないわけで。
「――よ、う……」
兄ちゃんにしか見せない百万ドルの笑顔も、朝のあいさつも、まるで風景に溶けるように消えていく。
……えっと。
こんなときアタシはどうしたら良いのだろう。閉まった扉と、凍り付いた姉を交互に見ながら、言葉を無くしてしまう。
……え? なんで? もしかして兄ちゃん怒ってる?
開いた扉の角度的に、兄ちゃんの顔を見ることは出来なかったが、無反応で扉を閉めたとなると、これはマズい。非常に良くない流れである。
ギギギとまるで、油の切れたブリキ人形のように、姉がこちらを見てくるもんだからたまらない。震える手は扉を指さして、顔はもう泣きそうになっている。
アタシは空を見上げてしまう。頭の中では『しくじった』という言葉が駆け巡っている。
姉の頼みはホドホドに。今更ながら我が家の家訓を思い知る。やはり、簡単に頼み事を聞くんじゃなかった。
なんせ、このパターンは長引くパターンなのだ。
アタシは知っている。兄ちゃんと姉のこの空気は、ケンカしている時のソレだということを。
だけどおかしい。
昨日の話の流れでは、むしろ幸せいっぱい胸いっぱいのクソ甘お花畑なのだと思っていたのだけど、どういうことなのか。
確かに姉から詳しく聞いたわけではないし、兄ちゃんもラインでは教えてくれなかった。
となると、これはあれだ。
無自覚に、姉が兄ちゃんを怒らせたパターンである。
もしかしなくとも、アタシはやっかいな事に巻き込まれたのだろう。
この姉は、どんなに自分が悪くても謝らない。それに心当たりがないのならなおさらである。それでは治まるものも治まらない。長引くのは必至なわけで。
うわぁ、めんどくせぇ……。
さっさとこの場を離脱したほうが賢い気がしてきた。なんちゃらは犬も食わないと言うし、巻き込まれたアタシはただの被害者だ。だから、
「は、ははーん。兄ちゃんきっと忘れもんしたんだよ。お姉ちゃんの顔を見て、おもいだしたんだなーきっと」
もう、こうなったら適当な事を言って逃げるしかない。棒読みの三文芝居だけど、意外とその通りかもしれないし、それならそれで万事解決なわけだし。
「だからほら、こんなところで待っててもあれじゃん? 中で待ってなよ。うん、それが良いって」
アタシは今ちゃんと笑えているだろうか。こじれればアタシにもとばっちりがあるのだろうけど、まずは目の前の問題からだ。
とりあえず、このままでは遅刻してしまう。それだけはなんとしてでも回避したいのだ。
姉の涙目は『ほんとにそう思う? 』といった種類のものだったけど、知ったことか。
「しかも、せっかくお姉ちゃんが挨拶したのに、兄ちゃんは何も言わずにドアを閉めたんだよ? 文句のひとつくらい言ってやんなきゃ」
ごめん、兄ちゃんホントにごめんなさい。あなたは多分悪くない。でも、勘弁して。今だけは悪者になってください。もちろん、フォローはしておきます。
「……でも、なんか怒ってなかった?」
「いやいや、心当たり無いんでしょ? じゃぁ、怒っているように見えただけだって」
「でも、アイツ、無視したし……」
あぁもう、ホントに時間が無いというのに。
またもや、ベソをかきはじめた姉に、いよいよ腹が立ってきた。地団駄を踏みかける足を沈め、でも顔は引きつってしまう。
そもそもだ、そもそもこの諍いは十中八九、この姉のせいなのだ。小さな頃からずっとこの二人を見てきたアタシだ。間違いないと断言できる。
なんせ、兄ちゃんは本当に姉のことを大切にしているし、ケンカするにしても、兄ちゃんからふっかけることはこれまでほとんど無かったのだから。
どうせ今回も、意味不明なワガママで困らせたのだろう。兄ちゃんも人間だし、虫の居所が悪い日もある。
なんだか兄ちゃんと、そして今の自分がとても不憫に思えてきた。焦る心も相まって、いよいよ我慢の限界だ。
だから、今から言うのは、アタシと兄ちゃんの憂さ晴らし。これだけ被害を被ったのだから、少しだけイヤミを言っても罰は当たらないだろう。
アタシはこれ見よがしに、咳払いをひとつ。少しだけ、冷めた表情で姉に言い放った。
「でも、もしもだよ? もし、お姉ちゃんのせいで兄ちゃんが怒ってるのなら、謝んないお姉ちゃんは――嫌われて当然だよ」
そんなの百年の恋も冷めるね、ご愁傷様。アタシは手のひらを合わせ、わざとらしく合掌してみせる。
でも、少しやり過ぎたかも知れない。
まさに会心の一撃か。姉の透き通るような白い肌は、一気に血の気を失った。
あちゃー、やっぱりか。アタシは頭を抱えてしまう。
きっと思うところがあるのだろう。姉は、
『もしかして、昨日怒って帰っちゃったからかなぁ』とか、
『バカっていっぱい言っちゃったからかなぁ』とか、
ブツブツ念仏のように唱えている。
そもそも、この姉、『嫌われる』というワードに非常に弱い。特に兄ちゃんが絡むとなおさらである。
「あーぁ……」
思わず出たアタシの溜息に、姉の身体がビクリと跳ねた。そりゃ溜息の一つくらい出るというものだ。
「……なによ」
だから、姉が顔面蒼白のままで気丈に睨みつけてきても、これっぽっちも引く理由がない。
「いや、ようするにお姉ちゃんのせいなんでしょ? 」
だって、心当たりありますよと、そう顔に書いてあるんだから。
――アタシは月曜日がキライだ。そして、そんな日に、朝から面倒ごとを持ってくるヤツはもっとキライだ。
もういい加減付き合いきれそうにない。
見ると、通勤通学で、道路には人が溢れ始めていた。
見慣れた顔が行き来する中、ヤバいと焦って仕方ない。いつもなら、今通ったサラリーマンとはもっとも~っと先ですれ違うし、見ると、向こうの方からは駆け込み乗車で有名な若いOLさんが半泣きで走ってきている。
となると、だいたい今の時間はこのくらいか。タイムリミットはもう目と鼻の先。
いよいよまずいことになってきた。自分自身、もはや歩いていては間に合わない。
ええいと、アタシはドアノブに手をかける。
「あ、ちょっと! 」
上ずった姉の声が聞こえたが、無視だ無視。もはや時間が無いのだ。
アタシは最後にもう一度、姉を睨みつける。
「お姉ちゃんが悪いわけでしょ? 」
姉も眉をハの字にして、悔しそうににらみ返してきた。
「……ちがうもん」
まだ言うか。それにアタシは知っている。その顔はいつものあの顔だと。
「いいから、さっさと仲直りしな」
勢いよくドアを開け放つと、姉の背中を押して、脇目も振らずに一目散に駆けだした。




