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ナイン・テイルズ

完璧主義者にうってつけの日

作者: 穹向 水透

四作目となります。巧く書けていたらいいのですが。

       1


 私の名前は日向礼(ひむかい あや)。S大の大学院生で、主に微生物の研究をしています。微生物はいいですよね。見てると落ち着きます。私はボルボックスがお気に入りなんです。知りませんか? オオヒゲマワリとも言いますね。

 ところで、私には去年から付き合っていた彼氏がいました。意外でしょう? 私、恥ずかしながら、生まれてから二十年近く、恋愛というものと疎遠だったんです。親からも「あんたはミジンコと結婚する運命なのよ」なんて揶揄されたりしてたんです。理系女子の運命なのかなぁ、なんて私自身も諦めていたんですよ。でもですね、去年、J大のカズサって子から合コンに誘われたんですよ。カズサは私の高校時代で最も仲の良い友人で、俗に言う「陽キャ」でした。何故、私のような人間と仲良くなったのか、それはお互いの謎になっています。で、私は合コンに誘われたんですよ。でも、そんなもの行ったこともないし、行くことも考えたこともない。更に言えば、その日は培養などの研究が長引いたので家に戻る時間もありませんでした。なので、白衣で行ってやりました。何故、白衣を脱がなかったかって? 白衣の下は高校時代のジャージだったんですよ。普段なら、ジャージの上にパーカーを着て帰ってたんですが、その日はパーカーが水に濡れてぐしゃぐしゃだったんです。まぁ、そんなこんなで行ってやりましたよ。半分ヤケクソですけどね。当然ながら、妖怪のようなものを見る眼で見られましたね。カズサも「どうした?」って割と真剣な眼で囁いてきました。私が事情を説明すると、「まぁ、仕方ないか。礼、そういうところあるもんね」と笑ってくれたのが救いでした。

「これで六人、集まったね」

 そう言ったのが、私の彼氏となる人でした。

「集まったよ」とカズサ。慣れているようで、誰よりもテキパキと動いていました。

 男性三人、女性三人。まずは自己紹介でした。

上代(かみしろ)ナツオと言います。職業はN製薬で、新薬の研究をしています」と左端の男性が言いました。なるほど、新薬。話してみようかな、と私にしては積極的な思考をしていたことを憶えています。

 二人目の男性は「迫沼(さこぬま)ダイチです。ジムのインストラクターをしています」と言いました。確かに腕も太く、胸板も厚い。そして、それらが服の上からわかる辺りが本物なのでしょう。カズサが「ステキ」と小声で言ったのが聞こえました。

 そして、三人目、右端に座っていた男性は「雨使(あまつか)ケイと申します。職業は、まだ大学生です」と言いました。そう、この雨使(ケイ)こそ、私の人生初の恋人となる男性です。彼の服装は、もうなんというか、非の打ち所がないくらい似合っていました。私はブランド品とかはわからないけど、彼の服がそんなに高くはないことはわかりました。それでも、これ以上ないくらいに似合っていたのです。そのコーディネートが彼の為にあるような感じがしました。横からカズサも「清潔感の塊」と私に囁いてきました。

 次に女性陣の自己紹介でした。まずは左端に座っていた女性。私は知らない顔でしたが、どうやらカズサの大学の後輩のようでした。

砂原(さはら)カナエです。J大の英文科に在籍しています。よろしくお願いいたします」と言うと、上代か迫沼のどちらかが口笛を吹きました。私はふたりに少しよくない印象を抱きました。

 次にカズサが「草薙(くさなぎ)カズサです。カナエと同じくJ大で、私は数学科に在籍しています」と言いました。へぇ、数学科だったのか、と思いました。確かにカズサは数学が得意だったな。そんなことを考えていると、カズサが「礼の番だよ」と私に言いました。仕方がないので、重めの腰を上げました。

「日向礼と言います。S大の大学院で微生物の研究をしています」

 上代と迫沼が何やら話しているのが見えました。雨使景は前をじっと見つめていました。ちなみに、彼の正面は私でした。

「では、今日は楽しみましょう」とカズサの声が聞こえて、みんながグラスを持ちました。私が戸惑っていると、カズサが「乾杯だよ」と教えてくれました。私もグラスを持って正面の彼とグラスを鳴らします。甲高い音が響いて、私は、これが大人か、というよくわからない感慨に浸っていました。

 その後は各々が質問と解答を繰り返す、宛らインタビュー合戦が繰り広げられていました。

「上代さんって、年収どのくらいなんですか?」

 これは砂原の質問でした。初手から金銭関係の話は下品ではないでしょうか。見れば、上代の顔も強張っていました。彼が「まぁ、ぼちぼちですよ」と答えると砂原は何も言わず、グラスのワインを飲み干しました。女性から見ても失礼な女性です。容貌からは判断できないので、やはり、女性というものは仮面を被っているのでしょう。

 その後もインタビュー合戦は続きましたが、私は黙々と眼の前のサラダを食べ、大して美味しくも思えないワインを飲んでいました。それは彼も同様で、何も質問しないままサラダを食べていました。そんな彼を観察していると、それはそれは綺麗に、盛り付けたサラダを食べるのでした。皿は未使用のように白く、また、彼の口元も何もなかったように綺麗でした。最早、残りの四人は私たちを置いてきぼりにして話を進めているという感じでした。

「礼も少しは話しなよ」とカズサが言うが、どうにも気が乗りません。こんなことなら、研究室で愛しの微生物たちを眺めている方が有意義だと思えました。そんなことを思っていると、彼の声がしました。

「どんな微生物が好きですか?」

 私は思いがけない質問に驚いて、少し固まりました。

「えっと、……ボルボックスです」と無駄にゆっくり答えました。彼はレタスを口に入れて、「そうですか。僕は微生物というものはどうにも苦手で」と言いました。変な人だと思いました。虫や哺乳類が苦手な人がいるのはわかりますが、微生物が苦手だという人は初めて見ました。別に肉眼で視認できるわけでもないのに。ああ、でも、ダニとかも嫌われる対象か。けれど、大抵の微生物は害を与えないのに。そんな風に思っていると、つい口から「何故ですか?」という言葉が出てきてしまいました。少しキツい口調ではなかったでしょうか。

 彼は意表を突かれたような顔をして答えました。

「お気に障ったなら申し訳ない。ただ、それは微生物に限ったことではなく、僕からしたら、哺乳類も虫も魚も鳥も嫌悪の対象なのです。どうしてか、と訊かれると答えづらいですが、簡単に言えば『完璧』ではないからですね」

「『完璧』?」

「はい。どこかしらに欠陥を抱えていますよね」

「なるほど。それは確かにそうですが、その欠陥も含めて生き物と呼ぶのではないでしょうか? 欠陥がないものなんて、SFの世界のロボットくらいではないでしょうか。人間も然り、私たちは欠陥を愛しているのです。それを愛せないあなたは何ですか?」

 私の語気は強くなっていたでしょう。少なくとも、上代と迫沼がひそひそ話を始めるくらいには。ああ、やってしまった。やはり、私は人間関係を築くのが不得手なのです。慌てて「すいません。強く言い過ぎたかもしれません」と彼に謝ると、彼も頭を下げました。合コンではそれっきりの会話でした。

 合コンが終わり、上代と迫沼はカズサと連絡先を交換していました。砂原は交換できていたのか知りませんが、私だったらこの女とは交換しないだろうな、と思いました。

 会場の外へ出て、それぞれが帰路につきました。カズサはタクシーで、上代と迫沼は歩いて駅へ、砂原はわかりません。そして、私と彼が残されました。やはり、気まずいもので、お互い口も利かないのです。

「少し話しませんか」という彼からの提案が救いだした。今、駅へ行っても上代と迫沼と会ってしまうでしょう。私は彼らも好きになれそうになかったです。合コンというイベントは、嫌いなタイプを見極める為にあるのかもしれない、と思いました。

 私たちは近くの自販機まで行きました。彼が私にコーヒーを奢ってくれました。意外に優しいところがあるのだと思いました。自販機の前で屯してると、不良か何かのようなので、一旦、近くの公園に移動しました。名前は忘れましたが、緑の豊かな小規模の公園で、遊具も数えるほどしかありませんでした。私たちはブランコに座り、コーヒーを飲みました。

「先程はすみません」と彼が言うので、「いや、こちらこそすいません」と返しました。

「あなたもああいった場は不慣れなようですね。僕も上代と迫沼に誘われまして。あのふたりは高校時代の先輩でしてね、半強制的に参加させられたんですよ。彼ら、僕が人との関わりを避けたいタイプだってことを理解してやってるんですよ。悪いやつらでしょう?」

「そんなことよりも」と言った後に、失礼だなと思いましたが、気にせず続けました。

「『人間』はどうなんですか? 人間も嫌悪の対象ですか?」

「そうですね……、『完璧』ではありませんから」

「『完璧』って何ですか? それに、あなたは『完璧』なんですか?」

「ええ。僕は『完璧』ですよ。『完璧』とは、僕は何も違わないことだと考えています。極端な例ですが、片腕が欠損している人や知的な問題を持つ人は『完璧』ではないのです」

「あなたはつまり、『平均』を『完璧』だと言っているのですか?」

「限りなく近いですが、異なるものです。左右対称なども僕の中では『完璧』の一要素です」

「はは、アメーバなんて最悪ですね」

「……僕は、ある一縷の望みを懸けて参加しました。断ってもよかったんですけどね」

「望み?」

「はい。僕はK大で『完璧』について研究しています。それで僕は『完璧』でない人との比較をしてみようと考えました。しかし、どの人も僕には耐えられないくらいで、合コンもダメ元での参加でした。そうしたら、あなたがいた。あなたは僕の『完璧』の思想に対して疑問を呈した。今まで僕の考えは無視され続けましたから……」

 彼はブランコから降りて言いました。

「僕をあなたの恋人にしてくれませんか」

 彼は続けます。

「勿論、失礼だとはわかってます」

 私はコーヒーを飲み干して、黒い空を見上げて息を吐きました。

「わかりました。いいでしょう。私も微生物ばかりでなく、人間にも興味を持ってみないといけませんから」

 こうして、彼と私は恋人となりました。この数日後には同棲を開始しましたが、あくまで観察対象というふたりです。カズサも、研究室のメンバーも驚いて、「人間だったんですね」と妙な感想を述べていました。以上が私たちの出会うきっかけの話です。


       2


 私たちの出会いは、世間的に見れば特異なもので、話すと大体の人に驚かれます。一見、綺麗な凹凸同士で、ぴったりくっついてるかと思いきや、凹と凸の隙間には磁石のS極同士のように接することのない力が働いていたのです。お陰様で、卑近な触れ合いなどない、逆に言えばトラブルの発生しないふたりとなりました。整頓されていない箇所があれば、彼がすぐに直してくれます。どんなに重要なことで手が塞がっていようが、彼は綺麗に直そうとするのです。私は整頓が苦手なタイプですが、彼はそれを責めることはありません。何故なら、私は観察対象。私まで『完璧』主義に陥ったら、彼が私と暮らす理由はなくなるのです。

 私たちが住んでいるマンションは駅から徒歩五分という立地の良さで、元々は私がひとりで暮らしていました。彼がこちらに越してきた理由は、観察対象として扱うのに、自分のマンションでは成立しないから、とのことでした。恐らく綺麗すぎるのでしょう。少し散らかった部屋の方が観察するのに適しているのです。しかし、私の部屋でさえも、彼が越してきた日に、引っ越しの荷物と同時に片付けてしまったので、頗る綺麗な状態が続いています。一度だけ、カズサが来ましたが、「綺麗過ぎて落ち着かない」と言っていました。私もそう思いますが、慣れてしまいました。

 ここからは私たちの日常を話すとしますが、まぁ、中身のないものなので注意して頂きたい。

 ここで話すのは、平日の月曜日のことにしましょう。

 私は朝に弱いです。その上、夜更かしが大好きです。昨晩も、テレビゲームのネット対戦に時間を費やしました。私はピンクの丸っこいキャラクターを、緑色に変化させてから使います。どうでしょう? 微生物みたいに見えません? 見えないなら何も言うことはないですけど……。私の腕前についてはあまり言及したくないので割愛しますが、彼の腕前は凄まじいものがありました。何度かプレイしていましたが、全てあっさり勝って、かなりの上級プレイヤーをも苦戦することなく倒しました。最終的に「敵が弱くて飽きた」と言って、読書を始めてしまいました。夜中の三時には彼も私もベッドに向かいました。ベッドはスペースの問題で、同じものを使っていますが、そこから何かに発展するというケースはなく、そもそも、どちらも『恋人ごっこ』に興味があるだけで、本当の恋人になりたいわけではありませんでした。

「礼、起きて」と彼が言ったのが午前九時。カーテンは全開で、陽の光が燦々と照らす環境でぐっすり眠っていました。彼に「何時に起きたの?」と訊ねると、「六時には起きていた」と言いました。要するに彼はショートスリーパーというタイプの人間なのです。私が「羨ましい」と言うと、「『完璧』になるなら必要なことだよ」と言っていました。

 私はこの日、昼間から大学院に行く予定だったので、まだ早いように思いましたが、彼曰く「『完璧』な準備をするためには、このくらいは早く起きなきゃ」とのことでした。私は彼が用意した朝食(知らないメーカーのシリアルでした)を食べて、シャワーを浴びて、化粧をしようとしたのですが、彼に止められました。

「化粧をするのは『完璧』を損なう。君は『完璧』を求めるのに仮面をするのかい?」

「待って、私は『完璧』なんかじゃなくていいんだよ」

「ああ、そうか、ごめん。人に『完璧』を押し付けてしまうのは僕の悪い癖なんだ」

 彼はそう言うとシャワーを浴びに向かいました。私はいつも通りの化粧をしました(弁解のために言いますが、決して厚化粧ではないと思っています)。彼も昼から大学なのですが、その前に本屋に寄る予定らしく、十一時には出ていきました。遅刻も許さない彼です。買う本も、電車の時刻も、到着する時間も計画通りに(こな)すでしょう。私はそんなことは気にしないので、悠々と十二時まで専門書を読み耽っていました。遅刻遅刻、なんて思いながら家を出たら、案の定、遅刻でした。高校時代から私はルーズな人間で、三年生の時の遅刻回数は学年トップで、二位の生徒と二十回も差がありました。生まれ持った性は直らないと言いますが、その通りのようです。

 大学院から帰ったのは夜九時でした。彼には「夕飯不要」の連絡をしておいたので、コンビニで焼き鳥数本を買いました。疲れていたので、米や麺を食べる気力は湧きませんでした。いくら好きな研究でも、同じような作業が長引くと辟易するものです。焼き鳥をコンビニ前で食べて、マンションへ帰りました。すでに彼は帰っているようで、玄関の灯りが灯っていました。私は本物の恋人のように「ただいまー」なんて言ってみます。彼も「おかえり」なんて演技をしてくれます。『完璧』な彼は、私が読み散らかしていた専門書も、しっかりと棚に片付けておいてくれました(しかも、並べ方も以前より見やすくなっていました)。部屋も私が家を出た時より綺麗になっていますが、家具の位置が変わっていました。これは彼の『完璧』の模索で、彼が『完璧』だと思える配置を常に探しているのです。彼の配置はいずれも便利なので、私からの文句はありません。帰ってくるのが少し楽しみになった、というオマケもあるのです。

「今日は遅かったね」

 そんなよくある言葉を流した彼は、新品のバランスボールに乗っていました。彼は『完璧』に近付くために鍛えることを続けているのです。確かに常人離れした体幹を持ち合わせているようで、彼が蹌踉めくところなどは見たことがありませんでした。それは彼のストイックな体調管理も影響しているのでしょう。高校時代は体調不良のために遅刻を繰り返し、大学時代は体調不良のために留年しそうになった私とは大違いです。

「シャワーは先に浴びてしまったよ」

「うん、わかった」

 私は彼の後にシャワーを使うことに抵抗はありません。彼からは臭いというものがしないように感じます。香水などもつけていないので、無臭ということになります。それに、彼はシャワー使用後には、きっちりと掃除をしておいてくれるので綺麗なままなのです。本当に入ったのか疑いたくなるくらいに綺麗なのです。

 午後十一時くらいから、ふたりでワインを飲みました。これは毎日恒例に近く、彼曰く「酒を飲んでも『完璧』であるための訓練」とのことでした。確かに彼はアルコール耐性も常人離れしており、友人たちからは「大酒豪」と呼ばれているようです。私は常人ですので、酔ったらすぐにベッドへ向かいます。そのため、彼はひとりでの晩酌になることが多々あります。彼が眠りにつくのは大抵、十二時を過ぎた頃。なかなか寝付けない上に睡眠が浅い私は、ベッドが少し軋むだけで眼を醒ますのです。彼は私が起きていることを知ってるのか知らないのかわかりませんが、「おやすみ」と必ず言ってくれるのです。こればっかりは本物の恋人同士にも勝るのではないでしょうか。

 さて、以上で私たちの日常の話は終わりです。如何でしょうか。離れた所からフィルターを通して見れば、普通の恋人に見えたりしませんか? 私はいつの間にか、彼のことが好きになっていました。人間とは不思議なものだと、他人事のように思いました。彼の『完璧』の思想にも慣れてきました。しかし、私は彼の『完璧』への執着をまだ知らなかったのです。


       3


 ここからは話すのは、彼という人間についてです。私が見ていた彼の『完璧』というものは、まだまだ浅く、海で例えるならまだ漸深層程度でしょうか。人間とは恐ろしいものだと改めて思い知りました。

 その日は朝から雨が降っていました。季節は初夏。梅雨のためか、雨はしとしとと長く、冷たいものでした。私は雨の日になると、気分的な問題かもしれませんが、頭痛に悩むのです。その日は特に酷く、ちょうど、研究もある程度の進捗率だったので、休むことにしました。彼に連絡を入れてもらい(研究室では私が彼と暮らしていることは既知の情報でした)、簡単な朝食を食べた後、頭痛薬を飲み、ベッドで横になりました。窓に当たっては流れる水滴が、頭痛を少しだけ和らげるような気がしました。

「音楽でも聞くかい?」と彼が言ったので、「要らない。頭に響いてしまうもの」と答えました。実際、雨が窓を叩く音さえ頭を鳴らすのです。

「吐き気は大丈夫?」

「今のところは」

「寒くない?」

「大丈夫」

 『完璧』な彼が少し狼狽えているように見えました。観察対象が弱っているのは彼にも不測の事態なのでしょうか。

「そんなに気にしないで。よくある頭痛だから。あなたは大学に行っても大丈夫だよ」

「うん、わかった……」

 彼は酷く不安そうに言いました。ああ、なるほど、彼は『完璧』だから、体調を崩すなんて経験がないのでしょう。『完璧』と言えども、未知の領域に足を突っ込むのは怖いということのようです。彼は小さめの声で「行ってきます」と言って出ていきました。私は頭痛薬の効果で眠くなり、いつの間にか眠りに落ちていました。

 気がついたのは正午を回る寸前。雨は依然として降っていました。頭痛は大分、和らいでいました。ひとまず、冷蔵庫から飲み物を得ようと思って、キッチンまで歩きました。冷蔵庫の中身は驚くほど整頓されていました。私の好きなメーカーのカフェオレが完備されてるあたりが『完璧』たる所以なのでしょう。少なくとも私は彼に明言したことはないと思うのですが。私はカフェオレをラッパ飲みして、テレビを点けました。昼頃のニュースでは、病院の屋上から少年が飛び降り自殺したという内容が流されて、病院側の責任がどうのこうの議論されていました。自殺か。最近、多いよなぁ。私は……、ボルボックスが絶滅したら死のうかな。そんなことを考えていると、チャイムが鳴りました。宅配便かな、と思って出ると、隣の部屋の有森(ありもり)さんでした。どうやら、作った料理の余った分を届けてくれたようでした。

「あら、礼ちゃん、風邪? お大事にね」

「ありがとうございます。大したことはないのでご心配なさらずに」

「そうそう。彼氏君の届けてくれた鶏肉のソテーね、とても美味しかったわ。彼氏君に伝えといてくれない?」

「はい、勿論です」

 有森さんは「お大事に」と言って扉を閉めました。私は彼に感心しました。近所付き合いまで『完璧』に(こな)せるなんて流石だなぁ、と。頭痛と微熱でぼんやりした頭では、何だか水中にいるみたいにふわふわしていました。ああ、これはダメだ、と思って、テレビを消してベッドに戻りました。そこで私は彼という人間を考えていました。

 『完璧』を求めるきっかけは何だろう。

 どんな家庭環境だったのだろう。

 昔はどんな子供だったのだろう。

 昔の夢は何だったんだろう。

 好きな言葉は何だろう。

 好きな食べ物は何だろう。

 好きな音楽は何だろう。

 好きな場所は。

 好きな天気は。

 好きな色は。

 好きな花は。

 好きな動物は。ああ、これはダメか。

 あと、何だろう。

 そうだ。

 私のことは好きなのだろうか。

 『完璧』な彼から見て、私はどうだろう。

 私は、私は、私は。

 何だろう。

 雨に紛れて、何か隠れている。

 私は、どうすればいいのだろう。



 眠ったり、起きたりを繰り返しているうちに、頭痛もよくわからなくなって、寝ているのが辛くなって、でも、何かが心の何処かで蠢いていて、落ち着かせるために専門書を取り出して読みました。何だかお腹が空いたので、有森さんに頂いた料理を食べました。味がよくわからなくて、あんまり美味しく思えなかったのは、頭痛のせいでしょう。

 私は彼の帰りを待ちました。ひたすら、待ちました。

 午後六時。

 午後七時。

 午後八時。

 けれども、彼は帰って来ませんでした。私は、観察対象として見限られたのでしょうか。自然と涙が零れ落ちました。ああ、私も人間なんだなぁ、って場違いな感情が出てきたので押し込めました。そわそわしていても仕方がないので、またカフェオレをラッパ飲みして、テレビの前のソファに腰掛けました。カーテンが閉まっていないのが気になりましたが、気怠くて閉める気になりませんでした。

 彼に連絡をしてみました。「今日は遅くなるの?」と。けれど、返信は一向に来ません。

 何となくテレビを点けると、K大前の通りで乗用車が事故を起こしたというニュースが報道されていました。K大というと、彼の大学です。少し胸騒ぎがして、落ち着かせようとした直後のことでした。ニュースキャスターは「ふたりの男性が死亡、ひとりは重体のようです」と言いました。その次に画面が事故現場に切り替えられ、テロップが表示されました。

「亡くなったのは上代夏雄(なつお)さん、二十五歳と、迫沼大智(だいち)さん、二十五歳です」

 ここで私は息を飲みました。合コンの時のふたりの名前が表示された時点で、私の不安は最大になりつつありました。

「重体は雨使景さん、二十四歳です」

 ああ、もうどうしよう。眼の前は真っ暗。

 頭が痛い。頭が痛い。

 暗転。



 私は事態を知らせようと駆け付けた有森さんに発見され、病院に運ばれました。私が運ばれた病院は、奇しくも彼と同じでした。彼も私も、その日のうちに意識を取り戻しました。

「……礼」

 彼の最初の声は私を呼ぶ声でした。私は涙を雨のように流していたと思います。

「……僕はどうなってる?」と彼は言いました。私は伝えるべきか否か葛藤した結果、伝えることにしました。

「景……、あなたの左腕は、酷く潰されてしまってたようで、切断ということになったみたい。でも……、他は」と私が言うと、彼は絶望した表情になり言いました。

「僕は、僕は、『完璧』ではなくなったのか」

 彼はそのまま黙ってしまいました。


       4


 これで話は終わりです。彼は『完璧』ではなくなりました。

 え? 彼とのその後?

 ああ、その日のうちに別れてしまいました。彼に一方的に振られてしまったんです。

 でも、私は今でも好きですよ。

 今でも、ちゃんと、お墓参りは欠かさずに行っています。

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