第六話
『人……じゃ、ない』
白霧の向こうにある森から現れたそれは、人のような形をした全く別の何かだった。
明るい月明りのせいでよく見える。
ソレは白を通り越して青くなった肌に虚ろで濁った瞳をし、身体の至るところから腐りの気配を漂わせた化け物だった。
それは、襤褸切れのような服を纏い、小太郎と同じように小太郎の事を濁った目で見つめて気味の悪い唸り声をあげながらユラユラと近づいてくる。
『……“ゾンビ”』
ニホンではそのように呼ばれているもの。それにうり二つだった。
小太郎は知らぬ事だったが、ソレはこの世界では〈尸塊〉と呼ばれる存在であった。
過去に白霧に足を踏み入れ、そのまま戻らぬ存在となった屍。それが時を置いて再び動き出したもの――それが〈尸塊〉。
一目見たその外見のおどろおどろしさから小太郎は立ち竦んでしまう。
(な、なにこれ……なんでこんなモノが)
見た目からくる恐怖だけでなく、本能が最大限に警鐘を鳴らしていた。金縛りにあったように体も固まってしまっている。
すると、尸塊はその白い眼をギョロリと動かした。
――標的を定めた。
そう小太郎が直感したときには、ソレは走り出していた。両手をもたげ、獲物を見つけた獣のように小太郎目掛けて。
『うわわッ!』
凍りついていた思考が目の前の危機に突として氷解する。
(に、逃げなきゃっ)
小太郎は未だかつてないくらいに目を見開き恐怖した。が直ぐに震える足を無理矢理動かして反対方向に逃げ出した。
――逃げる、逃げる。ただひたすら足を動かす。
『はっ……はっ……』
後ろを振り返らず息を荒らげる小太郎。
村の柵までもうすぐという所、そこであろうことか脚をもつれさせてしまい転げる。
その勢いのままに夜露に濡れた地面に叩きつけられる小太郎。
(イタッ、――最悪だっ)
お世辞にも身体能力の高くない小太郎の脚は恐怖と緊張によって思う以上に動かなくなっていたのだ。
痛みに一瞬顔を歪ませるが、状況を思い出した小太郎はハッと後ろを振り返った。
「――っ」
小太郎はギョッと目を見開く。
振り返ったその先には、こちらに襲い掛かからんと両手をもたげた尸塊がもう直ぐそこまで迫っていたのだ。
(逃げきれない――)
刹那の思考でも、それだけは理解できた。
自分みたいな子供でも、もしかしたら何か出来るんじゃないか、なにか為すことが出来るのではないか。
“ニホン”という平穏と非現実な想像に溢れた世界に染まりきった一子供が、ポッと出でやってきた世界で浅はかにも自身の力を過信してしまった。
小太郎は後悔する。
数瞬の後に訪れる運命を考え、小太郎はギュット唇を引き結び恐怖から瞼を閉じた。
(死ぬときってこんな感じなんだ)
小太郎は走馬灯の様に流れのやけに遅く感じる思考の中でそんなことを思った。
果たして死ぬときにはどれほどの痛みがあるのか。
――そんな死の間際の静寂に一つの声が響く。
『――コタあぁっ』
『え』
小太郎は思わず閉じた目を開いた。
声の方へ振り向くとそこには、
『リィンスさん!?』
これまで一度も見たことのない程の必死の表情で駆けてくる義姉の姿があった。
柵から飛び出すように出てきたリィンスは瞬時に状況を理解する。
(あれは、グールッ!?)
小太郎に襲い掛かろうとしているものの正体が尸塊だということに。
驚きのあまり、一瞬足を止めてしまったリィンス。が、状況が最悪だということに気付いた瞬間には駆け出していた。小太郎の元に。
(このままじゃっ)
リィンスは無我夢中で駆けるも、このままでは間に合わないと思った。
このままでは小太郎が尸塊の餌食になってしまうと。
髪を振り乱しながらリィンスは唇を噛み締めた。
そのことを小太郎も理解したのだろう。
一瞬合った小太郎の目が、驚きから悲しみへと変わる。
リィンスにはその目がまるで、『ごめんなさい』と謝っているように見えた。
(っ……やらせる――)
今まさにグールと小太郎との距離が零になろうとした時、
『――もんかああ! コタくんから離れろぉーー!!』
リィンスの不屈の声が咆哮となって放たれた。
果たしてそれは無意識の行動だったのか。ソレを義弟から遠ざけようと、守ろうとした結果とった自然過ぎる行動。
小太郎の目に、白い閃光が弾けた。そう思った次の瞬間にその光が轟音と共に迸る。
一瞬、閃光が小太郎の目の前を走り抜けたと思った次の瞬間には閃光がグールを穿った。
光をまともに受けたグールがくの字に吹き飛ぶ。
『……』
耳を押さえた小太郎がゆっくりと目を開くと、そこには倒れたままピクリともしない焦げたグールが。
それを見て呆然と立ち尽くす小太郎。
一方の当のリィンスもたった今自分がしたことに驚き、小太郎同様に右手をかざしたまま立ち尽くしていた。
木々のざわめきだけが聞こえる月明かりの下で、三つの影だけが静かに。
………
……
…
それが数ヵ月前の出来事。
「……」
小太郎はぼうっと宙を眺めながら数ヵ月前の出来事を思い出していた。
あの事件の後、小太郎は自分の行動を悔やんだ。そして思い知った。自分はあらゆる面で子供なのだと。
思い付きで何かを為せる程賢くはないし、またこの世界はそれを簡単に許す程優しい世界ではないのだ。
ここは“ニホン”ではないのだ。
なにより、小太郎自身が弱いという事をこれ以上ないくらいに思い知った。
ただその一方で、その時の事が切っ掛けで素質が発覚したリィンスは、そこからはあれよこれよという間に、“適応者”の集う機関である“協会”行きが決定した。
小太郎の己の無知から起こした事件ではあったが、奇しくもそれがリィンスの将来の選択肢を拓くことに繋がった。
それだけは幸いだったとも言えるのかもしれない。
「じゃあコタくん、そろそろ寝よっか?」
「……あ、あの、……そろそろボクは一人でも……」
「あら? コタくんは私と一緒に寝るのが嫌?」
「い、いえっ、別にそういうわけでは……」
「んふふ、ならよし。それに私が一緒に寝たいだけなの。だからコタくんも気にせず一杯甘えてもいいのよ? なんなら、チュウチュウしたって……リィンには内緒にしておくから」
「いえっ、そんな――おやすみなさい!」
「もうコタくんったら……ふふ、おやすみ」
「むぎゅ」
そのままターニャの胸に抱き抱えられた小太郎は若干の息苦しさを覚えつつもされるがまま一旦目を閉じる。
(……今頃どうしてるのかな、リィンスさん)
目を閉じた小太郎は、数ヶ月会っていない義姉に思いを馳せた。
あの事件の事や、時々くる手紙のことを思い起こしながら。
と、隣を見ればもうターニャが寝息を立てている。
(寝付きがいいのは娘と同じだなぁ)
ターニャが寝入った後、しばらく経ってから小太郎はターニャを起こさぬように寝床を抜け出た。
文字の勉強は既に終わっていたが、物語を書き起こす作業はなんとなく続けていた小太郎。
小太郎は、今夜もひとり小さな明かりの傍で机と向かい合う。
本の題材は、“ニホン”で読んだことのある、一人の村娘が『英雄』となる物語。