21 伝えたかったこと
今にも崩れ落ちてしまいそうな、日下先輩の弱々しい告白を彰はただ見つめていた。
表情には何の感情もうかがえず、見ている私は不安になる。香奈も同じ気持ちだったのか、私の制服の裾をぎゅっとつかんだ。
吉森少年は信じられない。という顔で日下先輩を見つめていた。
日下先輩は吉森少年を見て、すぐに目をそらす。
「あの日、私と唯はケンカをしていました。理由は覚えてません。覚えてないくらい、どうでもいい内容だったんです」
そういって日下先輩は顔をゆがめる。今にも泣き出しそうだが、泣くことなんて許されない。そう思っているかのように、必死に涙をこらえていた。
淡々とした口調は冷静さを保つためなのかもしれない。感情を抑えた抑揚のない声が、余計に辛い。
「それでも、当時の私は唯に腹を立てていました。絶対に許さない。謝っても許してやるもんか。っていつもだったら一緒に手をつないで帰ったのに、唯を置いて先に帰ったんです」
日下先輩はいっそう自分の体を抱きしめる。ガタガタと体震え、今にも倒れそうなほどに顔は青白い。
「唯は追いかけてきました。待って、置いてかないで。謝るからって。何度も私に声をかけてきたんです。
でも、私は意地になっていて、唯の呼びかけを無視しました。
そして、この交差点で、唯は私に追いつきました」
日下先輩は彰をじっと見つめる。いや、彰というよりも彰の後ろに立っている唯ちゃんを見つめているのだろう。
何かを迷う様子で口を何度か開閉する。しばしの沈黙の後、日下先輩は震える声で話をつづけた。
「唯は私の腕を掴みました。きっといくら声をかけても返事をしない私に、焦ったんです。
でも、私はすごく腹が立っていて……唯のそうした行動すら許せなくて、腕を振り払った……」
日下先輩の震えが大きくなった。
「まさか、あんなことになるなんて思わなかった。
振り払うっていっても、軽くのつもりだった……。でも、思ったより力が入って、バランスを崩した唯はは後ろに倒れて…………そこに……トラックが……」
「美幸姉ちゃん……」
震える日下先輩の手を吉森少年が握り締める。大丈夫。美幸姉ちゃんは悪くない。そう言葉に出さずに伝えるが、日下先輩か顔を左右に振った。
「私のせいです……。私のせいなの。
あの時私が変な意地なんかはったから……。唯を振り払ったりしたから……。唯とケンカなんかしたから……。私のせいで……、私が唯を殺した!」
日下先輩はそう叫ぶと、ズルズルとその場に崩れ落ちた。
何とかこらえていた涙が、頬を伝う。一度流れ出た涙は止め方が分からないように、静かに流れ続けた。
きっと、ずっと日下先輩は泣きたかったんだ。それなのに後悔と罪悪感から、泣くこともできず、悲しみは逃げ場所を失って心の奥にため込まれていた。
それが今、あふれ出てきたように見えた。
「美幸姉ちゃんは何も悪くないって」
日下先輩の肩に手を置いて、吉森少年は日下先輩に呼びかける。必死に目を会わせようとするが、日下先輩は下を向いて、弱々しく首を振った。
自分が悪い。自分のせいだ。と責める日下先輩に、吉森少年の言葉は届いていない。
救われる気がない。そう彰が言った意味がようやく分かる。
日下先輩は罰を欲している。
「皆そういった。
警察の人に、私が殺した。私を捕まえてくれ。っていったけど、君は悪くないとしか言われなかった。
唯のお母さんとお父さんにも、私が悪いんです。っていったけど、あなたは何も悪くないとしか言われなかった」
日下先輩はそう言って顔をおおった。
「全部不幸な事故だって! 誰も悪くなかった。君は何もしていない。そう皆いった。辛かったね。もう気にしなくていいのよ。って慰めてくれた。
でも、それって可笑しいのよ! 私は生きてる。唯は死んだのに! 私のせいで、もういないのに!」
日下先輩はそう叫んで、胸を押さえつけた。
吉森少年は日下先輩の肩からゆっくりと手を放す。何を言っていいのか、どうすればいいのか迷い、離した手が宙をさまよい、やがてあきらめたように下を向く。
吉森少年も日下先輩に悪くない。そう言い続けた人間の一人だ。吉森少年に日下先輩を責める意図はなく、ただ自分を責める日下先輩の重荷を軽くしたかった。楽にしたかった。
それだけだったというのに……、それすらも日下先輩には重荷になっていた。
なんて、不幸の連鎖だろう。
「……何も悪くないって言われたって、納得いかないよねえ……」
黙って話を聞いていた彰がぽつりとつぶやいた。彰にしては弱々しい、何だか泣きそうな声に聞こえて、私は耳を疑う。
彰はその場にしゃがみ込む。
それでも日下先輩に目線を合わせることはなく、下を向く彰に吉森少年は困惑した様子を見せた。
「僕さあ、弟がいたんだ」
その言葉を聞いた瞬間、余裕の表情だったリンさんの表情が凍り付いたのが視界の端にうつった。
「とっても可愛い弟でさ、いつも僕のこと気遣ってくれて、僕にすごい懐いてくれたの」
彰はかすかに笑みを浮かべて、懐かしそうに弟の事を語る。日下先輩は困惑した様子でゆっくりと顔を上げた。
日下先輩は彰の弟が死んでいることを知らない。でもいた。という言葉と、雰囲気から何か大事なことを言おうとしていることは察したのが分かる。
私はいつになく静かな彰の語り口に、胸がざわついて落ち着かない。
「ちょうど唯さんが亡くなった年齢と同じ。弟は8歳で死んだんだ。僕をかばって、ナイフで刺されたんだよ」
彰は泣きそうな顔で笑った。
ナイフという聞きなれた単語。だが、刺されたと言葉が続くと、とたんに遠い世界の出来事のように感じる。
それは死んだのではなく、殺された。というのではないか。
日下先輩と吉森少年が目を見開く。彰はそんな反応お構いなしに、下を向いたまま語り続ける。
「お前のせいじゃないって言われた。弟が死んだのは殺した人間が悪いし、僕はたまたま言わせただけだって。弟は僕のことが大好きだったから、僕が生きてて喜んでるって。そう言われた」
リンさんが視界の端で拳を握り締める。顔をしかめる姿を初めて見る。意外に思ったが、私は彰から目をそらせない。
「でもさあ、そんなの納得いくはずないでしょ。だってさ、死んだんだよ。弟は。もう会えない、話せない。
頭がよくて、明るくて、皆に愛されてた。僕なんかよりよっぽど、世界に必要とされた子だったのに。
死んだんだ。僕のせいで」
彰は再び笑う。自分を心の底から軽蔑している、あざけりの笑みだった。
「それなのに、みんな言うんだよ。お前は悪くない。あれは不幸な出来事だったんだ。お前のせいじゃないって。
僕のせいじゃないわけ、ないのにさ」
日下先輩の表情が歪み、先ほどよりも大きな涙が瞳から零れ落ちた。ただ流れていた涙に嗚咽が混じり、苦しそうに息をつく。
吉森少年は日下先輩の隣に移動し、その背をゆっくりと撫でた。
「たとえ世界中の人が自分を許してくれたとしても、僕自身が自分を許せない。
ねえ、先輩ならこの気持ちわかるよね」
彰の問いかけに、日下先輩は泣きながら必死にうなずいた。
彰はその様子を見て、悲し気に笑う。
2人とも、自分と似た経験をした存在を前に安心している。同時に、安心している自分を嫌悪している。
大事な人を犠牲にして、今を生きている事実に2人の心が休まる日は来るのだろうか。
隣で香奈が目をこする。大きな瞳からは涙でぬれていた。感受性が豊かだから、彰と日下先輩に共鳴してしまったんだろう。
そういう私も泣いてしまいそうだった。日下先輩だけでも辛いのに、語っているのは彰だ。
お前はそんなキャラじゃないだろ。笑えよ。そんな悲しそうな顔で、不安そうな顔をするな。って怒鳴り散らしたい気持ちになって、私は唇を噛みしめる。
きっと彰も可哀想なんて言われるよりはいい。と笑うだろう。
それが分かっても、私はそれを言うことはできない。
今救われるべきは彰ではなく、日下先輩なのだ。彰が自分の弱い部分をさらしてまで、救おうとしているのは自分ではなく、他人だ。
それを私が邪魔をしていいはずがない。
何で真逆に見えるのに、そんなところだけ似てるんだ。と私は拳を握り締めた。
彰も日下先輩も、損ばかりする大馬鹿ではないか。
彰は日下先輩の様子を見て満足げに笑う。
これで日下先輩を救えると確信した様子を見て、安堵と同時に私は悲しくなった。
彰が日下先輩を救う。じゃあ、彰を救えるのは一体誰なんだ。
そんな私の気持ちすら振り払うように、彰はにっこり笑うと、日下先輩の顔の前でパンっと手をたたいた。
何の前触れもなく猫だましをくらった日下先輩が目を見開く。見開かれた目から涙がボロり落ちる。
それが今まで日下先輩を蝕んでいた、付き物が落ちたようにも見えた。
「分かったなら、ちゃっちゃと僕とは違う結末選んじゃおう! 先輩はまだやり直せるんだから」
「え?」
さっきのしんみりモードはどこにいったのか。通常運転に戻った彰は、日下先輩が言葉の意味を理解する前に立ち上がる。そしてそのまま、横へと移動した。
彰の背に隠れていた谷倉唯の姿が、日下先輩の目にうつる。
日下先輩は一瞬身を固くして、それから戸惑った様子で彰を見上げる。
「彼女は、先輩に伝えたいことがあるからここにいる」
「それは……私を恨んでの事でしょう……」
日下先輩はそう言って視線を下げた。吉森少年が違う。と言おうとしたのだろうが、先ほどの告白を聞いたためか、苦し気に口を閉ざす。
「ここを通ると、許さない。そういう唯の声が聞こえる。きっと唯は私を恨んで……だから今に成仏できてない……」
自分の胸を握り締めて日下先輩は語る。悲痛な声を彰は黙って聞いて、あきれたようにため息をついた。
「先輩さあ、自分がゼロ感だって忘れてない?」
え? と顔をあげる日下先輩に、彰はいつも通りの人を小ばかにした笑みを浮かべた。
「僕やマーゴ、霊感がある吉森君が聞こえない声が、ゼロ感の日下先輩に聞こえるわけないでしょ」
彰の言葉に日下先輩は目を見開いて、固まった。私も意味が分からずに香奈と顔を見合わせる。
吉森少年もは戸が豆鉄砲を食らったような顔で彰を見る。
リンさん、マーゴさん、クティさんの3人だけは、ああ。とどこか納得した様子だった。
この人たち、本当に説明する気がない。
「先輩はずっと罪を欲してたし、精神科に通う位には精神が限界だった。唯さんが私を恨んでいる。憎んでる。って妄想にとりつかれてもおかしくない」
「……」
「少しでも罪悪感を薄れさせようと高校進学先はうちの学校を選んで、毎月交差点にやってきては花を手向けた。先輩の性格からいって高校入学してから欠かしたことないでしょ」
彰の言葉に吉森少年が頷く。
「それがまずかったんだよ」
「え?」
「日下先輩、幽霊は信じないっていっても、少しぐらい考えたんじゃない? もしかしたら、唯は私を恨むあまり、未だに成仏できていないかもしれない。って」
日下先輩は少し間をあけてから、無言で頷く。
罪悪感に苛まれた日下先輩が、無意識にそう思ってしまうのも仕方ないことだ。
罰を欲していいたのなら、幽霊だとしてもお前が悪い。そう言われたかったのかもしれない。
「普通だったらそう思っても、何も起こらなかった。ただの妄想だし、ちょっと日下先輩のメンタルが悪くなるくらいの話。
ただ、今回の場合は本当に唯さんはここにいた。だから日下先輩の想いと唯さんの願いが、共鳴しちゃったんだよ」
「共鳴……?」
「早い話、お前がそこの幽霊に断罪されたい。っていう気持ちと、そこの幽霊がお前に何かを伝えたい。って気持ちが一致したんだよ」
黙って話を聞いていたクティさんが口を挟む。
ヤンキー座りで道端に座り込んでいるのだが、苦虫をかみつぶしたような顔をしている。
クティさんからするとほぼ面識のない人間の懺悔を聞いてるわけだ、いい加減にしてくれ。という感じなのかもしれない。
それにしたって柄が悪い。
「2人で毎月かかさず、お花をあげて拝んで……、日下さんだっけ? は、きっと1日だって忘れることなかったでしょ?
僕らみたいに不確定な存在って言うのは、生きている人間の想いっていうのが重要だ。昨日そこの子が言ったみたいに」
マーゴさんはクティさんの言葉を引き継ぐと、香奈の方を見て笑った。
香奈はびくっと肩を震わせると、何故か私の背後に隠れた。今は隠れる場面ではなかったと思うが……、何だろう。気恥ずかしくなったのだろうか。
「小さいころから一緒だったなら、生きてる間につないだ縁も深いだろうしなあ。何とか消えずに持ったのは、お前らの思いの結果だろうな」
「まあ、ほんとギリギリだったけど。もうちょっと遅かったら自然消滅だったねえ」
マーゴさんが朗らかに、笑えないことを言う。そうなったら、とんでもないバッドエンドだ。
「えってことは、日下先輩が花を手向けてたのは、よかったの? よくなかったの?」
「物事にはメリットとデメリットがあるから……。
唯さんの魂を保つことには効果を発揮したけど、結果的に日下先輩も引っ張られちゃった。もともと罪悪感があったから、実際の幽霊の行動と妄想が交じり合っちゃったわけ」
「混ざった……?」
彰は、そうそう。とあっさり頷くが、いまいち私は理解できていない。
「昨日みたように、唯さんが日下先輩に何か言いたくて残っていたのは本当。でもって、日下先輩が知覚範囲内に入ると、追いかけていたのも本当。ただ、聞こえていた声は日下先輩の被害妄想」
「被害……妄想……」
事実だとしても、その言い方はあんまりじゃないか。さっきまでみせた仲間意識はどこにいった。
そう私は内心突っ込みつつも、心のどこかでホッとしていた。
弱り切った、泣きそうな彰を見るのは、どうも心臓に悪い。
「だからさ、先輩、ちゃんと話聞いてあげて。最後の瞬間。唯ちゃんの話聞いてあげられなかったなら、なおさら。これが最後のチャンスだから」
日下先輩の後ろに移動した彰は、先輩の背をそっと押した。
最後のチャンスという言葉に、私は唯ちゃんをじっと見つめる。
そういえば、昨日は赤い空間に入ってすぐ反応したというのに今日は何の反応もない。こんなに長々話しているし、日下先輩もすぐ近くにいるのに。
「死んだ人間に謝れるチャンスなんて、滅多にないんだから」
彰はそう言って、日下先輩の背を先ほどよりも強く押した。
普段通りにいったつもりだろうが、かすかに声が震えている。その声で私は、彰が無理やり感情を押し込めているのだと気付いた。日下先輩のために。
彰の想いが通じたのか、日下先輩はよろよろと立ち上がる。
数メートル先にいる唯さんを恐る恐る見つめる。唯ちゃんは日下先輩に気づいた様子はなく、うつむいたままだ。
「唯……」
日下先輩は名前を呼びながら一歩近づく。唯ちゃんは日下先輩など見えていないかのように、何の反応もしない。本当にもう限界なのだろうか。
一歩、また一歩。ゆっくりと日下先輩は唯ちゃんへと近づいた。見ているだけでも、ずいぶん長く感じられ、私は思わず手を握り締める。
本当に唯ちゃんは日下先輩を恨んでいないのか? 日下先輩は救われるのか? 考えれば、考えるほど不安になる。
そんな私を安心させるように、香奈が私の手をにぎる。
見ると、祈るように真っ直ぐ日下先輩を見ていた。その瞳に暗い色はなく、ハッピーエンドをただ信じている。
「唯……!」
先ほどよりも大きな声で、日下先輩が名前を呼ぶ。
とたん、うつむいていた唯ちゃんの顔が上がった。何かを探すように顔を動かす。そのたびに血が地面に散るが、もう怖くはない。
やがて日下先輩を視界にとらえると、昨日と同じく手を伸ばして、走り出した。
昨日はあんなに怖かった姿が、今はただ悲しい。
日下先輩は一瞬ひるんだものの、すぐに走ってくる唯ちゃんのもとへと駆けよった。
残っていた距離があっという間になくなり、ゼロになる。唯ちゃんは勢いのまま、日下先輩の胸に飛び込こんだ。
「ごめんなさい」
そう声が重なって聞こえた。
重なった声に日下先輩は目を驚いて、抱き止めた唯ちゃんを見下ろす。
唯ちゃんは伸ばしていた手を日下先輩の背に回すと、ぎゅうっと必死に抱きついていた。もう絶対に離れない。そう言った必死な様子で、叫ぶ。
「美幸ちゃん、ごめんなさい! 私が悪かったの!」
予想外の言葉に、日下先輩の反応が遅れた。
「何で……、謝るのは、私の方じゃ……」
震える声で唖然とつぶやき、日下先輩は唯ちゃんをじっと見つめる。
同い年だったはずなのに、日下先輩よりも二回りほど身長差開いてしまった唯ちゃんは、日下先輩の声が聞こえてないかのように謝り続けている。
これはどういうことだと彰もを見ると、彰も予想外だったようで、驚きの表情で固まっていた。
彰が分からないのなら、私にわかる気がしない。
「……お前、ケンカしてたって言ってただろ」
助け舟を出したのは、意外なことにクティさんだった。
いい加減にしてくれ。とうんざりした様子で頭をかいて、投げやりに声を出す。
「そいつ、即死だったみてぇ」
「…………?」
「ようするに、痛みを感じる間もなく一瞬で死んじまったから、死んだって気づいてないんだよ」
日下先輩は自分に抱き着いて、必死に謝り続ける唯ちゃんを改めて見下ろした。
死んだと気付いていない。ということはつまり……。
「そいつは死んだ直前にしようとしてたことが、出来なかったのが心残りでずっと留まってただけ。お前のことなんて恨んでないし、むしろ逆。
ただ、お前に謝りたかっただけ」
「美幸ちゃん! ごめん! 嫌いにならないで」
クティさんの声をかき消すように、唯ちゃんの声が響いた。
唯ちゃんは日下先輩が何も言わないのが不安なのか、顔を日下先輩のお腹の辺りに押し付けて、嫌がるように頭を左右に振っている。
その仕草に日下先輩は唯ちゃんを見下ろして、次の瞬間に顔をゆがめた。
止まった涙が頬をつたうが、先ほどの見ていて胸が痛くなるものではない。あたたかい気持ちになる、綺麗な涙だった。
「嫌いに……なるわけ、ないでしょ……」
日下先輩が震える声で、何とかそう口にした。
「唯のこと……怒ってるわけないじゃない……」
「……ほんと?」
唯ちゃんが恐る恐るといった様子で顔を上げる。顔色は悪いし、相変わらず血は流れているが、先ほどに比べると表情が明るいように見えた。
「私こそ、ケンカして……ごめんね」
「美幸ちゃんは悪くないよ! 私が悪かったの」
日下先輩が何とか言葉を絞り出すと、日下先輩の葛藤など知らないかのように、唯ちゃんは笑う。
恨みや憎しみとはかけ離れた純粋な笑みに、日下先輩は一層泣きそうな顔をした。
「よかった、嫌われてなくて。私、美幸ちゃんのこと大好きだから!」
言うと同時に、唯ちゃんの姿がキラキラと輝きだす。
滴っていた血が消え、曲がっていた足が元に戻る。青白あった肌、はぬくもりを感じる健康的な色へと変化した。
8年前の姿にもどった唯ちゃんは、嬉しそうにほほ笑み、美幸先輩に思いっきり抱き着くと……音もなく消えた。
「……成仏したみてぇだな」
「消耗しちゃったけど、あれくらいならギリギリ何とかなりそうだね」
「来世はもっと長生きできそうだな」
クティさん、マーゴさん、リンさんが上を見上げて口々にいう。私も同じく空を見上げたが、マーゴさんによって作り出された赤い空間が広がっているだけだ。
けれど、彼らがいうのならば、きっとそうなのだろう。
日下先輩はさっきまで唯ちゃんがいた場所を見つめて、立ち尽くしている。不自然なポーズが唯ちゃんを抱き留めた形のままで、そこに唯ちゃんがいたということを証明していた。
だまって事の成り行きを見守っていた吉森少年が、こらえきれないとばかりに日下先輩へと走る。
「やっぱり、唯姉ちゃん恨んでなかっただろ! 美幸姉ちゃんのバカ―!」
そう抱き着くと同時に、声をあげて泣き出した吉森少年に、日下先輩は涙を浮かべながら笑った。
「ほんとにね……」
その笑顔を見て吉森少年は一瞬泣き止んで、それから先ほど以上に顔をゆがめて泣き出す。酷い顔になっているが、吉森少年はそんなことどうでもいいだろう。
8年ぶりに見た日下先輩の本当の笑顔の方が、彼にとっては重要だったに違いない。




