馬鹿なイヌの焦がれため息
「馬鹿なイヌの焦がれため息」
「すみません。」
薄紅のワンピースが私に声を掛けて尋ねた。
「××紅茶店って、どこにあるかご存知ですか……?」
上気した頬と肩呼吸。肩までふんわりと垂れた黒い髪が、赤らんだ顔とまるっとした輪郭をくすぐっている。花瓶にでも入れて窓辺に飾っておきたいような、小柄で可憐な、若い女性だった。私はびっくりした。××紅茶店は、今まさに私が向かっていた場所だった。だから彼女が事前に印刷してきたらしい地図を見るまでもなく、私は申し出た。
「よろしければ、お連れしますよ。私もそこへ行くところなんです。」
「いいんですか?」
彼女はぱらりと笑みをこぼした。花弁の二、三弁、舞い落ちていても差し支えないような笑顔は、すこしどきりとしてしまうほど愛らしかった。わずかな間のデートかな、可愛い女の子と。役得だ。
××紅茶店は商店街から10分ほど歩いた、半ば住宅街と言ってよい路地にぽつんと建っている。外装も無個性で地味なので、何なら周囲のアパートのほうが華美に見えるくらいだ。取り扱っている紅茶の味はそこそこよろしいとは思うが、近所でもないのに来るようなところとは思えなかった。彼女は、しかしながら、いとも愉快げにサンプルのティーパックの香りをかぎ、結局アップルティーとはちみつジンジャーティーを買った。私はそれを傍観した。別に買い物に来たのではなかった。
「あの、」とレジを終えた彼女が振り返った。
「お茶でもご一緒しませんか。あの、お礼のつもりです。」
店の奥には四、五席ほどの喫茶スペースがあったので、我々はそのうち窓に面したテーブルに座った。彼女はロイヤルミルクティーを注文し、私はコーヒーを注文した。いずれもすぐに運ばれてきた。30代半ばくらいの店長は、おしゃべり好きそうな笑顔を、私たちが二人でいるので我慢しているみたいな顔で、どうぞごゆっくり、と告げた。
「今日はいい天気ですね。気温もよろしい。」
そうですね、と私はとりあえず相槌を打ち、昨日は随分冷え込みましたけどね、と続けた。我々の会話はゴム毬のように軽快に弾んだとは言えなかったが、それなりに愉快に、穏やかに進んだ。彼女は、別に立川に住んでいる訳ではないらしい。であればどうして立川くんだりまで来て、しかも決して有名ではない××紅茶店などに来る必要があったのだろうか。それを問うと、彼女は言い淀んで、それは秘密です、と曖昧に微笑むに留めた。私はたいしてうまくもないコーヒーを啜った。
「お仕事は何をされているんですか?」と彼女は尋ねた。
「印刷関連の仕事をしています」と私は答えた。話題は私の職場のことへ移り、どうしてか私は白浜さんという派遣社員の女性について話すことになった。たぶん、私が軽く触れた際に、彼女が妙に好奇心を見せたのが理由だったと思う。私が続けるのを躊躇ったにも関わらず、彼女はぜひ聞きたいと身を乗り出した。あまり他人にするような話でもないな、とは思ったが、相手は赤の他人である。大した問題にはならないか。私は話すことにした。私の同僚がその白浜さんに、結婚を前提にした付き合いを求めたこと。その直後に、彼女が誰もいないようなところでクスンクスンと泣いていたのを、私が偶然に目撃してしまったこと。話しながら私は、白浜さんのほとんどすっぴんみたいなメイクアップと、ヘアゴム一つで束ねただけのポニーテールと、灰縁の眼鏡のことを思い出していた。
一時間ほど我々は話し込んだ。
そろそろ出ましょうか、と私は提案した。彼女は虚をつかれたように、そうですね、と所在なげに言ったあと、瞳のなかの光を揺らした。私は立ち上がるかどうか悩んだが、ひとまず彼女の逡巡を尊重することとして座り直した。彼女自身のことはあまり聞かなかった。どこで何をしている人物なのだろうか。考え込む姿は、シクラメンみたいに美人だ。たっぷり5分は続いた沈黙のあいだにそんなことを考えた。
店長がコーヒーのお替わりを勧めに来た。私は注いでもらった。
やはりたいしてうまくもないコーヒーを啜ると、彼女と目が合った。彼女は「聞いてほしいお話があります。」と言った。「10分ほどよろしいですか?」
構わない、と私が答えると、彼女は意を決したように口を開いた。黒髪が殊更に揺れている。震えているのだった。彼女は深呼吸して、寒さを押し殺すような声音で話し始めた。
「これは馬鹿なイヌの話です。
彼女は人間が好きでした。彼女は生来、同種のイヌよりも、人間ばかり好きでした。そしてあるとき、一人の人間に恋をしました。恋をしたと言っても、言葉を交わすことのできぬ者どうしですから、イヌは人間を見ているだけ。時々、いかにもイヌらしく、尻尾を振ってみたりするくらいが、彼女のできる精いっぱいのアピールでした。それでもその人間は時々はイヌのところに姿をあらわして、頭を撫でてくれました。飼ってはくれませんでした。当然でした。その人物には公的にそのイヌを飼う資格がなかったのです。おわかりでしょう。
イヌは人間に想い焦がれて、ひたすらため息を漏らすばかりでした。
ある日、オスのイヌが現れて、俺と結婚しろ、と言いました。彼女は嫌だと言いましたが、オスのイヌは聞く耳持ちませんでした。所帯を持たなくてどうするんだ。メスの意義は子を産むことにあるじゃないか、と。そう言われるとメスのイヌは返す言葉がありませんでした。人間に恋をしたって、子を産むことなんてできはしないし、そうしなければ、彼女はずっと一人ぼっちだということを知っていたからです。
オスは、では三日後に返事を聞かせてくれ、と言ってひとまず立ち去って行きました。思い悩むメスのイヌを見かねて、妖精が声を掛けました。
『どうしたの、イヌさん。』と。
『いやなんです、』とイヌは答えました。『好きな人がいるのに、それとは別に結婚するなんて。』
妖精はイヌを憐れんで、彼女に魔法をかけてやりました。するとイヌは人間の姿になりました。その姿で、お前の愛を告げておやり、と妖精はいいました。イヌはすぐに、好きな人間の住む場所へ向かいました。」
彼女の話はそこで途切れた。彼女はクスンクスンと鼻を鳴らして、すすり泣きはじめていた。私は動けなかった。何か声を掛けるべきだと思いながら、ふさわしい言葉がどうしても見つからなかった。
「坂上さん、」と彼女が顔を俯けたまま、クスンクスンと鼻を鳴らしながら、私を姓で呼んだ。会ったばかりの女性に、私は自分の苗字を教えていなかった。
「ほんとうは妖精なんていなかったんですよ。私は自分で服を買って、メイクをして、髪を作って、立川まで来たんです。」
喉から針を吐き出すような調子でそれだけ言うと、彼女は伝票を持って会計を済ませ、店を出て行った。金縛りにあったような私に、出入口に備え付けてあるベルの、カランコロンという軽快な音色が降り注いだ。
店長が厨房から声を掛けてきた。――食器とか、片付けといてな、俺仕込みやってくるから。そしたら、店番やっといて。いまバイト誰もいないからさ。
しかし私はその席から動けなかった。
告げるべきだったろうか? 今からでも追いかけるべきだろうか。私には彼女のような強さはなかった。厨房のほうで、蛇口から水が流れる音がする。私にとってのオスのイヌが、皿を洗いながら何やらを罵っているのが聞こえてきた。
私は顔を両手に埋めて、身体じゅうの空気を出してしまいたいみたいに深いため息を吐いた。
おわり




