ハルキストから見る小説の向き合い方
ハルキストというものをご存じだろうか。
作家、村上春樹のファンの通称のことである。
だいたいノーベル文学賞の発表時期になるとハルキストなる集団が勢いを増し、どこぞのカッフェーで通例の読書会の様子を電波へと流している。彼ら一様に村上春樹の小説を手に、場合によってはインタビューに答えたりもする。そして残念ながらノーベル賞に漏れると、彼らは自分が落選したかのように落ち込み、そして笑顔を見せながら来年こそはと口にする。村上春樹でないにもかかわらず。
私はその様子を見て、私見ながらに嫌悪感を憶えている。念を押しておくが、決して村上春樹を嫌悪しているわけではない。ハルキストの、陶酔しきった様子に対してである。
私の趣味に合っていないためか村上春樹の小説が面白いと思うことは少ない。それでも、読了し満足感を得るものもあった。そして世間の評価同様に、村上春樹の作品は素晴らしいと感じることもある。
しかし私が未熟ながらに評価できたのは一冊限りであり、得てして理解し難い作品もあったのは間違いない。しかしハルキストは村上春樹の全ての作品において最高点の評価を下している。彼らが内容を完全に理解し、それを口にできるかはひとまず置いておく。
時代が違えば、村上春樹は神になっていたのではないかと思う。私が見るハルキストとは、まるで宗教に取り憑かれた信者そのもので、現に一部の人間は村上春樹の小説をバイブルのように扱っている。
そして村上春樹の小説を完全に理解する一部の人間が布教活動を行い、彼らに感化された人々が知ったかぶりを隠して理解の第一人者を自称する。村上春樹を読まない人を否定して、否定するものを弾圧することもあるだろう。対立する作家が現れれば、宗教戦争の勃発もあり得る。もちろん、時代が違えばの話である。
小説の好き好きなど、人それぞれでいいのだと誰もが思う。そして自分と村上春樹の小説に酔いしれた一部のハルキストが、村上春樹の作品は傑作であり理解できない者は損をしていると、声高らかに叫ぶ。マスメディアはその様子を面白おかしく取り上げ、場合によっては誇張と同意を織り交ぜる。
結果として、私のようにとりあえず小説を手に取る者が現れ、頑なに拒む者がそれを見る。踊らされている者がいるぞと言いながら、目を向けようともしないで。
私も小説の好き好きは人それぞれでいいと考えている。自分の趣味や一押しの作家を他人に強制するつもりもない。ただ、面白いと思ったものを共有するつもりで勧めることはある。つまり、小説とは酔うものではなく共有すべきものなのである。
ハルキスト全てを否定し敵に回すわけではない。しかし、一人の作家を崇め視野を狭めて酔いしれるよりも、素晴らしい作品を書く作家の一人として捉えるほうが周囲の目も穏やかになるのではないか。ハルキストと名乗るよりも、小説好きと胸に秘めるほうが視界が広くなるのではないか。一小説好きとして、理解者が増えることを切に願う。
そして当然ながら、これらはハルキストに限った話ではない。