70.「皮下膿瘍」
「ばかな!
《サルベイション》でも使うつもりか?
残念ながら、この手の呪いには《サルベイション》は有効ではない!」
デイビッドは耳慣れない単語を用いて反論してきた。
「《サルベイション》?」
眉を顰める僕に、ミューズがそっと耳打ちする。
「《サルベイション》は、神聖魔法のひとつで、神による救済をもたらすと言われている。
わたしも使えるのだが、実際には毒にも薬にもならない魔法という評価が一般的だ。
だから、カナンの前では使わなかった。
今度、見せるよ」
そう言って、軽く謝ってくる。
まだ、そんな魔法があったとは。
意外と、神聖魔法も暗黒魔法も、聞けば、もっと種類があるのかもしれない。
しかし、そんな見知らぬ魔法を使わなくても、彼らは治療することが出来る。
僕は、戦士2人に近づいた。
僕の予想が正しければ、この2人は違う病態である。
まず、デイビッドを殴ったハンス。
右上腕が痛々しいほどに腫れ上がっている。
ただ、《ヒール》は、しっかりと掛かっていたようで、見た目、傷跡は分からないほどになっている。
まあ、激しく赤く隆起しているので、誰が見ても、ここに傷があったのだろうということは予想が付く。
しかし、本人が元気であることから分かるように、僕は、意外と軽症なのではないかと思っている。
恐らく、不衛生な状態で《ヒール》を掛けたことにより、皮下に膿瘍を形成してしまったのだ。
膿瘍とは、免疫を担当する血球成分のひとつである白血球の死骸である。
白血球、特に好中球やマクロファージは、体内に細菌が侵入すると、すぐに集まってきて、細菌を食べたり、自らの死体を積み重ねることで、細菌が体内に広がらないように局所に封じ込める。
つまり、封じ込めに成功しているために軽症で済んでいるのだ。
「ハンスさん、ちょっと失礼します」
「お、おう」
僕は、戸惑うハンスの手を取り、脈を取った。
脈拍は上昇しており、熱感もある。
細菌と出会った白血球がサイトカインをバラ撒いた結果だろうが、これらはあまり良い兆候ではない。
「手がしびれたり、動きづらかったりといったことはありませんか?」
僕の問いに、ハンスは手をグーパーしてみてから言った。
「いや?
特に、そういうことはない」
細菌が神経に浸潤していたり、コンパートメント症候群を起こしたりということはなさそうだ。
「痛いのは、ここだけですか?」
僕は、腫れているところを指差して言った。
「ああ、そうだ。
だからどうしたというんだ?
治せるんなら、早くしてくれ!」
ハンスは、右腕を押さえながら、苛立たしげに言った。
せっかちな人のようだ。
僕は、内心で肩をすくめた。
怒らせたら、僕も殴られるかもしれない。
「分かりました。
まず、痛みを取りましょう。
ティア、ハンスさんの右の脇の下、ここら辺に《パラライズ》を掛けてくれ」
「はいよ!
『父と子と聖霊の御名において。
かの者を枷に繋げ。
その身から自由を剥奪せよ』」
ティアが祈祷文を唱えると、彼女の右手が妖しく黒く光り出す。
「なっ、暗黒魔法だと!?」
ハンスが、そう言ってたじろぐ。
ギャラリーにも、どよめきが巻き起こっている。
涼しい表情をしているのは、僕ら4人とケビンぐらいだ。
しかし、僕にとって、その反応は想定内だったので、用意していた言葉を口にする。
「デイビッドさんは、神の奇跡では、あなたを救えないと断言した。
しかし、あなたは救いを求めている。
だったら、悪魔の力でも借りないことには、どうしようもないんではないですか?」
僕の言葉に、ハンスは苦虫を噛み潰したような表情になったが、その表情のまま目をつぶり、腕をこちらに差し出した。
オーケーのサインだ。
僕は、ハンスの右手首を再び掴んだ。
「ハンスさん、これから、あなたの右腕の痛みは無くなりますが、同時に右腕も動かなくなり、感覚もなくなります。
でも、安心して下さい。
同行しているミューズの《ディスペル》を使えば、すぐに、この《パラライズ》は効果を失い、あなたの右腕は再び動きや感覚を取り戻します。
不都合があれば、言ってもらえれば、すぐに解除しますので」
僕がそう言うと、ハンスは目をつぶったまま頷いた。
ミューズをちらりと見ると、彼女も頷いてくる。
「じゃあ、ティア、やっちゃって」
「はいな」
ティアはそう言って、黒光りする右手を、ハンスの右脇に近づけた。
右脇に黒い光が吸い込まれていく。
右脇が光を吸い込んだ途端、ハンスの右腕が力を失い、重力の方向へ垂れ下がろうとする。
僕は、彼の腕を掴み直し、落ちないようにした。
「痛みが、消えた……!」
ハンスが驚きの表情で目を見開く。
周りの聴衆も、再び、どよめきだす。
「これから、ちょっと痛い処置を行うために、《パラライズ》を掛けさせてもらいました。
これが掛かっていれば、痛みは起こりません。
これからの処置には、少し驚かれるかもしれませんが、必ず治しますので、安心して下さい」
僕は、そう言って、腰に差していたナイフを抜き払った。
周囲からは、再びどよめきの声が上がった。




