05.「筋弛緩薬」
自分で呼吸ができない人間には、外部からの強制換気が必要である。
人工呼吸器もバックマスクもない、この世界では、口対口の人工呼吸しか、強制換気の方法がない。
僕は、ミューズの鼻をつまみ、頭部後屈・顎先挙上を行いながら、ミューズの口に口づけて、息を吹き込んだ。
胸郭が上がるのを目安に、人工呼吸を黙々と続けた。
こうすることしか方法が思い浮かばなかった。
人工呼吸を続けながら、これが本当にミューズのためになっているのかと自問自答した。
まるで反応がないことに迷いながらも、延々と人工呼吸を行った。
これしか、出来ることがなかった。
それでも、途中で脈を取ると、脈拍が落ち着いてきているように感じられた。
それが自分の行為の正当性を証明するものと信じて、しばらく人工呼吸を続けるしかなかった。
えらく長い時間が経過したように感じられた。
実際には、1時間くらいだったのかもしれない。
僕は必死に人工呼吸を続けていたが、ふと、吹き込む息に抵抗感が感じられた。
ついに力尽きたか、と、その時は思った。
しかし、脈を取っても脈はきちんと触れる。
どういうことだとミューズの顔を見る。
すると。
ミューズが微笑んでいるじゃないか!
「ミューズ! 分かるか!?」
僕は、ミューズに呼びかけた。
すると、ミューズはついに、微かに頷いた。
胸を見ると、呼吸性に上下している。
自発呼吸が戻った!
僕は、安堵してへたり込んでしまった。
後で分かったことだが、ミューズに使用された毒物は、植物のツルを数種類煮詰めて作られたものであった。
人工呼吸だけで、なんとかミューズを助けることが出来たことと合わせると、この毒物はクラーレの一種なのではないかと考えられた。
クラーレは、アマゾン流域の原住民たちが毒矢に使用していた物質で、その主成分は筋弛緩薬である。
筋弛緩薬とは、神経筋接合部の伝達を阻害し、全身の筋肉の収縮を阻害する薬の総称だ。
ミューズは、この筋弛緩薬を塗られた刃物で斬撃を受け、すぐに《ヒール》で治してしまった。
それが、この筋弛緩薬を体内に取り込みやすくしてしまったのだろう。
全身の筋肉を弛緩させるということは、呼吸するための横隔膜や肋間筋といった呼吸筋をも弛緩させてしまうということだ。
このため、自力では呼吸することが出来なくなり、何も対処をしなければ、そのまま低酸素血症で死に至る。
「カナン……。
怖かったよぅ……」
動きを取り戻したミューズは、動けるようになったのが分かるなり、僕に抱き付いてきた。
ガタガタ震えている。
僕は、無理もないと考え、抱きしめてあげた。
先程も述べた通り、筋弛緩薬は、神経筋接合部という筋肉と神経のつなぎ目の部分に作用する。
中枢神経系には全く作用しない。
つまり、この筋弛緩薬を投与された人間は、身体は全く動かないのに、意識はクリアという状況になるのだ。
想像するだに恐ろしい。
意識ははっきりしているのに、身体は動かず、息もできない。
ただ、何もできずに死んでいくのを待つだけの存在になり下がるのだ。
筋弛緩薬は、麻酔科の領域で現在も使用されている薬である。
米国などでは死刑にも利用される。
いずれも、意識を失わせる薬を併用する。
誰かが、筋弛緩薬による殺人は、最も残酷な殺人であると言っていた。
死に至る瞬間まで、意識が清明だというのは、本当に残酷だ。
僕は、ミューズに同情すると同時に、よく頑張ったと褒めてあげたかった。
「聖騎士殿!?
無事だったか!?」
僕らがしばらく抱き合っていると、グレッグが帰ってきた。
驚きのあまり、目を白黒させている。
「はい。カナンに助けられました!」
ミューズは、そう言って僕の方を見ると、なぜか顔を赤くした。
もう、動きは全く正常に戻っている。
グレッグは、わっはっはと笑って、僕の肩をガシガシ叩いた。
「そうか! やるな、カナン!
異界の知識で助けてくれたんだな!?」
僕は、ガシガシ揺られながら、「はい」と答えた。
ガシガシが終わった後に、僕は、今回の侵入者の手口について説明した。
侵入者の使っていた剣には毒が塗ってあって、それを体に受けると、体中の筋肉が麻痺して、呼吸ができなくなってしまう。
毒を受けたら人工呼吸を行うしかないが、それで助かるかどうかは、実際には分からない。
毒を受けないようにするのが重要だと話した。
その時は、毒が筋弛緩薬かどうかの確信もなかった。
リスク回避の基本は、リスクを受けてから対処するのではなく、受ける前に対処することなのだ。
グレッグもミューズも、僕の話を感心しながら聞いてくれた。
二人が僕のことを一目置くようになったのは、多分、この時からだった。
「カナンは予想外の仕事をしてくれたっていうのに、俺は駄目だな。
侵入者は取り逃がしちまったよ」
グレッグは、頭を掻きながら言った。
傭兵たち総出で追跡したが、振り切られたとのことだった。
相手は、相当に隠密行動に長けた者なのだろう。
敵が致死性の毒を使ってくるという事実に、グレッグ邸には戦慄が走った。
グレッグは、何とか対処法はないものかと、僕に相談を持ちかけてきた。
毒が致死性を持つためには、ある程度の量を体内に取り込まなければならない。
そう考えた僕は、傭兵たちに全身性のチェインメイルを着こむように進言した。
そして、ミューズには、敵の斬撃を受けた人がいたら、まず水で充分洗い流してから《ヒール》を使うように指導した。
これで、斬撃を受けても、ある程度、毒物の濃度を下げることが出来る。
また、傷口を洗うという行為は、感染症に対する防御の観点からも重要である。
僕がそう説明してから、ミューズは必ず、《ヒール》を使う前に傷口を洗うようになった。
なんだか、こちらの意見が通り過ぎて、怖いくらいであった。
まあ、こんな感じで、万全とは言えなかったが、僕は何とか対抗策をひねり出した。
しかし、このことが新たな悲劇を巻き起こすことを、この時、僕はまだ知る由もなかった。




