55.「《カナン》」
「そもそも、《カナン》とは何なんですか?」
僕が聞くと、長老は眉間の深い皺をさらに深くさせて、答えた。
「分からぬ。
伝承は多いが、相互に矛盾があるなどして、何が本当のことなのか、さっぱり分からぬのだ。
むしろ、《カナン》については聖騎士殿の方が、うまく説明できるかもしれん」
長老に突然話を振られたミューズは、その状況に少し戸惑う素振りを見せつつも、説明を追加する。
すらすら説明が出てくる辺り、振られるのは予想していたのかもしれない。
「《カナン》とは、私たちの教会では、究極の神聖魔法と呼ばれている。
だけど、少なくとも私が知る限りでは、使い手は誰もいない。
神の言葉を直接聞いたとされる、預言者にしか使えないとされている。
使えば一瞬にして魔王を滅ぼせるとも言われているし、不老不死を得られるとも言われているし、巨万の富を得ることが出来るとも言われている。
《カナン》を研究する神学者は多いけど、あまりうまくいっていないようだ。
うまくいっていれば、《カナン》を使えるようになる人がいるはずだからね。
私としては、暗黒教団にも《カナン》の伝承があることに驚きだよ。
私たちの教会の秘中の秘だと思っていたから」
ミューズは、そう言って肩をすくめた。
確かに、そんな途方もない効果を持つ魔法であるなら、部外者には隠すだろう。
長老やマーテル先生が頷いているところを見ると、暗黒教団の方でもだいたい同じように伝わっているようだ。
実際、お互いが隠しあっているために、お互いに知らないと思っている面もあるのかもしれない。
「異界の者よ。
今までの情報を合わせ、貴様は《カナン》をどう考える?
リックは、本当に《カナン》を使用したのか?
それが本当だとしたら、《カナン》が行われたことにより、今後、何が起こるのだ?」
長老は、静かに問いかけてきた。
僕は、あの時のことを思い出す。
そもそも、迷走神経反射と考えられる朦朧とした状態であったため、あまり細部は思い出せない。
「確か、リックは究極の奇跡がどうこうと言って、少し長めの、聞いたことのない祈祷文を唱えました。
それに対して、騎士団長が、ものすごく驚いていました。
その祈祷文のことを知らないみたいでした。
そして、すぐに辺りが光に包まれて、リックが《カナン》を宣言して、だけど、僕は腹部を剣で刺されていたから意識が朦朧としていて、その光と共に意識を失ってしまいました。
次に気付いた時が、ティアたちに起こされた時でした。
でも、少なくとも、リックが宣言した魔法はカナンという名前でした。
それは確かです。
そして、結果だけ見れば、あの時、立っていた人間だけが消えました。
周辺にいる人間を、何らかの方法で、消す効果がある魔法としか言えないんじゃないでしょうか。
これから何が起こるかなんて分かりません。
ただ、寝ていた自分には、あまり影響がないみたいです。
手術の影響もあるので分からないところもあるけど、別に身体に不調がある訳でもないです」
僕がそう言うと、グレンが急に椅子の上に立った。
「おれも何ともない!」
そう言って、胸を張っている。
確かに、元気そうだ。
殴られた頬が若干腫れているが、外傷はその程度だ。
「リックたちは、生きていると思うか?」
ティアが、おずおずと聞いてきた。
ティアだけでなく、食卓を囲む皆がこちらを見た。
確かに、そこが一番、気になるところだ。
少なくとも、アルデンの町周辺にはいなかった。
その気配すらなかったらしい。
これは《カナン》が、単純に姿を消すだけの魔法ではなく、どこかへ移動するような効果か、完全に消滅するような効果であることを意味している。
できれば、前者であってもらいたい。
僕は、頷いた。
「リックは、ようやく自分の足で歩き始めたところだった。
その彼が、自分の意思で行ったことだ。
絶対に、自殺行為なんかじゃないと信じている。
主治医の前で自殺なんてされたら、たまらない」
僕の言葉に、ティアも頷き、彼女は長老のほうに振り向いた。
「長老!
やっぱり、リックは生きているよ!
あたしも、リックが死んだなんて考えられない!
最近のあいつは、いつも、夢のようなことばっかり言っていた。
今まで、何もかもを諦めていたやつがだよ?
そんなやつが、自分から死ぬなんて考えられない!
きっとまた、少ししたらひょっこりと出てくるよ!」
ティアがそう言うと、長老も頷いた。
そして、マーテル先生のほうを向くと、2人で頷きあう。
マーテル先生は、それを合図にするかのように、奥の自室へ向かい、革の袋を持って帰ってきた。
袋は、僕に手渡された。
長老が口を開いた。
「袋には、数年は食べるのに困らないほどの金貨が入っている。
貴様には、これで、リックの捜索を依頼したい。
案内にティアを付けよう。
聖騎士殿とエルフ殿も、解放しよう。
貴様には、こちらから頼んでばかりだが、お願いできないだろうか?」
願ってもない申し出だった。
ティアも、ミューズも、リリーも、同意見のようだった。
僕は、「ありがとうございます」と頭を下げた。
今まで鉄面皮だと思っていた長老が、この時ばかりは微笑んでくれたように見えた。
こうして、僕たちはリック捜索の旅をすることになったのだった。




