54.「《サイン》の秘密」
「『天にまします我らの父よ。
聖なる光もて、古の契約を打ち払い給え』
《ディスペル》!」
ミューズの祈祷と共に、彼女の手は光で溢れる。
その手を僕の額にかざすと、光は強さを増し、そして、光は僕の頭を包み込み、消えて行った。
準備のいいことに、ティアが鏡を持ってくる。
鏡を見ると、確かに、あれほど長い間、僕の額に付いていた黒い三日月の刻印が、綺麗に消え去っている。
今まで何となく頭に覆いかぶさっていたモヤのようなものが、消え去った気がした。
「でも、いいんですか?
これがなければ、僕は裏切るかもしれませんよ?」
そんな開放感のためか、僕は強気な発言をしてしまった。
まあ、長い間、悩まされていた訳だから、これくらい言ってもバチは当たらないだろう。
それに対し、長老は相変わらずの無表情で答えた。
「よい。
異界の者よ、貴様は充分、我々に対して恩恵をくれた。
だから、我々はその報いとして、貴様に知らせるべきだと思う。
その《サイン》という魔法には、それ自体には何の効果もないのだ」
「長老!」
長老の何気ない発言に、マーテル先生が口を挟もうとするが、長老は手で制した。
何の効果もない?
「よい、よいのだ、マーテル。
すべてには理由がある。
異界の者よ、貴様は、自分が裏切るような行為をした場合に《サイン》が発動し、貴様の命を脅かすと信じ込んでいただろう?
我々は、そう暗示をかけた。
だが、真実は違う。
《サイン》そのものには、人を殺す効果どころか、傷を負わす効果もない。
《サイン》は、その名の通り、使用した場所に消えない刻印を刻むだけの魔法なのだ」
「なっ!」
僕は驚いてティアの方を見る。
視線を逸らしたのが分かった。
あの様子だと、知っていたな?
《サイン》に人を殺す効果がないなんて、僕は、全く気づいていなかった。
最近では気にした方が負けだと思って、あまり気にならなくなっていたが、それでも、いつも心の片隅に引っかかっていた。
先程まであった額の違和感も、単純に気になっていたから感じていただけということなのだろう。
今までビビッていたのが、なんだか恥ずかしくなってきた。
「三殺というのは?」
ツル毒、虚笛(気胸)殺法、そして、この《サイン》で三殺だったはずだ。
この三殺を考案したのが長老ではなかったのか?
「それも、暗示の一部分なのだよ。
その他ふたつの暗殺方法が必殺であるがゆえに、残りの《サイン》も確実な方法なのだろうと思い込んでしまうようにしてあるのだ。
まあ、もともとツル毒や虚笛殺法の秘密を知った者を嵌めるために考案された代物だ。
貴様を対象者にしたことは間違っていない。
実際には、《サイン》は目印になっている。
このアルデンの町で《サイン》を付けた者は、常に警戒されるべき対象であり、常に監視される対象となる。
そして、《サイン》を付けた者が許容されざる悪事を働いたとき、アルデンの住人には、その者の生殺与奪を許してある。
だから、《サイン》の効果自体は、刻印を付けた者が裏切り行為を働いた場合に死ぬ、で間違っていない。
裏切り行為を働いた時点で、常に監視しているアルデンの住人に殺されるというわけだ。
その、裏切り者を殺害する方法が、《サイン》そのものによるのか、人の手によるのかの違いだけだ」
なるほど。
僕がビビっていたのは正解で、何らかの裏切り行為を行った場合には、僕は殺されていたという訳なのだ。
あまり大それた行動を取らなくて良かった。
「それで、なんでそんな大事なことを、僕なんかに教えてくれるんです?」
僕は、最も重要なことを聞いた。
今までの話を総合すると、この《サイン》の用法は秘中の秘であるはずだ。
部外者である僕が聞いていい内容とも思えない。
マーテル先生も、このために聞きとがめたのだろう。
長老は、やや感心したように頷く。
「貴様に、魔法について知っておいてもらいたかったのだ。
貴様は、リックが《カナン》を使用したと言っていると聞いた。
貴様には、まず魔法がどんなものかを理解した上で、貴様が見た魔法が本当に《カナン》なのかどうかを考えてもらおうと思ったのだ。
《サイン》でも分かる通り、この世界の魔法には、魔法自体に判断の力はない。
《サイン》が裏切り者を識別して殺す、というのは、我々が作り出した幻想なのだ。
他の魔法でもそうだが、魔法の効果がどこまで及ぶかは、行為者のみに影響される。
神聖魔法も暗黒魔法も奇跡という名前がついてしまっているから分かりづらいところもあるが、そこに行為者以外の意思は働かない。
たとえ、それが神の意思であっても」
確かに、《ヒール》も《ヘーレム》も、使用者が使用の範囲を完全にコントロールできる。
ミューズは、《ヒール》を使用して回復するかどうかは神の思し召しなので、やってみないと分からないみたいなことを言っていたことがあったが、そんなことはない。
《ヒール》もきちんとした法則に則った行為で、治療の効果には限界が存在するし、逆に、うまく使用すれば、たくさんの人を助けることが出来る。
そして、だからこそ、僕はそこに神の意思を感じることはなかった。
長老の発言は、納得できることであった。
「しかし、《カナン》は違う。
失われて久しい《カナン》であるが、伝承では、信仰の篤い者を楽園へ導き、信仰の薄い者を地獄へ落とす魔法だとされている。
別の伝承では、使用者の周囲に死を振り撒くものだとも言われている。
実際には、失われて既に千年以上が経過していると言われているので、分からない。
その魔法をリックが復元させたということも驚きだが、その魔法自体が実在していたということすらも、我々には驚きなのだ。
以上のような魔法であることから、《カナン》とは、神の降臨の前兆なのだという者もおるほどだ。
これは、教会の人間としては、無視できない情報なのだ」
長老は、相変わらず淡々と言った。
しかし、神という言葉を口にするときに、少し忌々しげな口ぶりになるのが印象的だった。




