03.「総頸動脈損傷」
破傷風の話は、ミューズにはしなかった。
言っても信じてもらえないだろうと思ったからだ。
何せ、証拠が何もないのだ。
怖い菌は破傷風菌だけではないし、魔法があるような世界の法則が、自分のいた世界の法則と本当に同じなのかという点も、まだ確証が得られていなかった。
中世と言えば、魔女狩り、異端者狩りという言葉が、どうしても頭をよぎる。
僕としては、様子を見ざるを得なかった。
魔獣討伐は数日で終わった。
成果は上々で、僕たち、というか、グレッグ一行は、意気揚々と街へ引き返した。
グレッグの治めるエーネルスホルン領はイストーリア王国の端っこにあり、帰り着いたのは街というよりは村といった方がしっくりとくるような場所であった。
そこには、グレッグの屋敷があり、それを取り囲むように30くらいの家がまばらに並んでいた。
帰るなり、グレッグ一行は村人たちの歓待を受けた。
魔獣には、村人たちも迷惑をしていたようだった。
村の広場で、村総出で宴会となった。
色々と美味しいものが出てきて、酒も振る舞われた。
僕は苦手なので少しでやめておいたが、それでも、お祝いの場だからということで、結構飲まされた。
討伐隊の面々も、しこたま飲んだようだった。
グレッグは、まさに水のように飲んでいた。
ミューズも結構飲んでいた。
まだ若いのに大丈夫かと思っていたが、予想通り駄目だった。
ぐでんぐでんにされた後に、僕の近くにやってきた。
やたらとからんできて、やたらと説教してきた。
酔うと説教をするタイプらしい。
ともかく、宴会自体は、皆幸せな気分で過ごすことが出来たようだ。
問題は、翌朝、発覚した。
討伐隊の傭兵の一人が、何者かに殺されてしまったのだ。
殺された傭兵は、ミリガンと言って、僕よりも若い男だった。
傭兵たちは、宴会後、グレッグの屋敷と、村人の家に分散して宿を取った。
ミリガンは、グレッグの屋敷に泊まっていた。
屋敷の外で後ろから心臓を一突きにされており、その現場は誰も見てはいないようであった。
さすがに、死んだ人を生き返す魔法はない。
戦勝ムードから一変、グレッグの屋敷は物々しい雰囲気となった。
傭兵たちは、2人1組で行動するように厳命された。
僕は、言われなくてもミューズのそばを離れなかった。
弱くてすいません。
これだけ警戒していれば、もう同じようなことは起きないのではないかと思っていたが、翌日、さっそく起きてしまった。
メリルとサイードという二人の傭兵が、哨戒中に何者かに襲われたのだ。
襲ってきたのは、かなりの手練れのようだった。
サイードの話によれば、一瞬にしてメリルの頸動脈を断ち切り、彼を無力化した。
サイードは戦慄し、とりあえず叫んだり騒いだりしながら、なんとか応戦し、助けに期待する戦法に切り替えた。
幸い、その戦法が功を奏し、屋敷に詰めていた傭兵たちが、どっとサイードに加勢したため、サイードを襲っていた何者かは、すぐに逃げ出した。
僕より一足先に駆け付けたミューズは、メリルの元に辿り着くなり、彼の首に《ヒール》を掛けた。
僕は、もう難しいのではないかと思っていたが、結果から言えば、メリルは助かった。
かなり血液を喪失していたため、しばらく身動きは取れなかったが、それでも一命を取り留めることができた。
これは僕の予想だが、切られた傷をメリル自身が可能な限り圧迫していたのが良かったのだと思う。
「《ヒール》の基本は、負傷即治療なんだ。
昔から、その方が救命率も上がるし、呪いに悩まされる可能性も少ないと言われている」
ミューズは、そう教えてくれた。
確かに、傷付いた時に、まず生命に直結するのは失血の問題だ。
失血死を回避するためには、速やかに傷をふさぐ必要がある。
また、呪い、というのが、既に感染症なのではないかと疑っている僕であったが、抗生物質のないこの世界では、傷口がそのままの時間が長ければ長いほど、感染の可能性は上昇するので、そういう意味でもなるべく早く傷口は塞いだ方がいい。
負傷即治療というのは、理に適った方法なのだ。
さらに、僕が驚いたのは、頸動脈が切られてしまっても救命できるという事実だった。
日本でも、メリルは助けられるのだろうか?
言葉の正確性を期すため、メリルのように左の総頸動脈が切断されてしまった場合として考えてみよう。
当たり前の話であるが、まず止血を確実に行わなければならない。
止血を確実に行うためには、切断した総頸動脈の両端を、糸などで結紮するしかないだろう。
そのためには、手術のできる病院へ運ばなければならない。
それまでは、いかに時間を稼げるかが、生死の分かれ目になる。
具体的な方法としては、切断部を強く圧迫することで止血を行い、できうる限りの失血を減らし、失血に対しては輸液や輸血を次々に行い、その他、施設によっては、昇圧剤の投与や低体温療法を試みる場合もあるかもしれない。
そうやって、なんとか総頸動脈の結紮までの時間を稼ぐ。
総頸動脈が結紮できれば、とりあえずは安定するので、あとはゆっくり輸血などを行って、循環動態の安定化を図る。
総頸動脈を結紮するなんてことを、本当にしてよいのか?
基本的には、総頸動脈は左右2本あるために、片方が閉塞しても問題ないはずだが、なんらかの理由でもう片方が血流障害をきたしている場合、総頸動脈を結紮することは、脳梗塞を惹起し、麻痺などの原因となりうる。
ただし、結紮しなければ生命を維持できないため、この場合はやむを得ないと言わざるを得ない。
以上の方法で循環動態が安定した後で、施設によっては、結紮した総頸動脈の縫合を試みることもあるだろう。
結紮した総頸動脈の縫合は、必須ではない。
というのも、片側の総頸動脈の血流があれば問題ないことが多く、また、起きてしまった脳梗塞は血流の再開によって回復することはないので、総頸動脈の縫合は今後の脳梗塞の予防的な意味しかない。
むしろ、脳梗塞が起こっている時に縫合を行えば、出血性脳梗塞という別の病態を引き起こしかねない。
その他、様々な合併症をきたしうるため、縫合を行わないという選択肢を取ることも、充分考えられる。
ちょっと話が脇に逸れてしまったが、確実な圧迫止血と循環動態の確保が頸動脈結紮までに必要となるので、日本では、救命はかなり難しいと言わざるを得ない。
簡単に輸血と書いたけど、輸血を準備するのにも時間がかかるし、輸血には感染症などの別の問題もある。
救急車が来て、病院に連れて行くまで、何分かかるだろう?
その間、持続的な圧迫止血は可能だろうか?
そもそも、病院がそのような人を受けてくれるだろうか?
まあ、《ヒール》による止血でも、脳梗塞を惹起する可能性はある。
実際にメリルに起きていたかどうかは、診断する方法がないので分からない。
ただ、少なくとも症状を起こすような脳梗塞は起きていなかったようだ。
多分、メリルが若かったことで起きなかったのだと僕は思っている。
綱渡りな状況に、変わりはない。
いずれにせよ、この日の襲撃は、僕たちに、さらなる警戒をもたらした。